右大臣
【概説】
日本の律令制における最高国家機関・太政官の長官に次ぐ重職。左大臣の次席として、ともに国政の合議と決定を行った。飛鳥時代に端を発し、明治時代に内閣制度が創設されるまで存続した。
律令制下の太政官における位置づけ
律令制において、国政を統括する最高機関である太政官には、長官として太政大臣が置かれていた。しかし、太政大臣は「則闕の官(そっけつのかん)」と呼ばれ、適任者がいなければ置かれない名誉職的性格が強かった。そのため、日常の政務を統括する事実上の最高責任者は左大臣であり、右大臣はその次席として国政の合議と執行を担う要職であった。
官位相当は正二位または従二位であり、天皇を補佐し、八省などの下部機関を指揮監督する強大な権限を有した。日本の律令制は唐の制度を模倣しているが、独自の太政官制のなかに組み込まれたものである。古来の日本や中国において「左を右より尊ぶ」という思想があったため、左大臣が上位、右大臣が下位とされた。
職掌と左大臣との関係
右大臣の基本的な職務は左大臣と共通しており、朝廷における公卿会議の主宰や、国家の重要案件についての天皇への奏上など多岐にわたった。通常時は左大臣を補佐する立場にあったが、左大臣が欠員の場合や、病気などで職務を遂行できない場合には、右大臣が太政官の筆頭(一上:いちのかみ)として政務を代行した。
平安時代中期以降、合議制の公卿会議である陣定(じんのさだめ)が国政の中心となると、右大臣は左大臣とともに会議を主導し、政治的決定において決定的な役割を果たした。また、右大臣の下には内大臣や大納言が置かれ、彼らとともに太政官の上層部を形成した。
飛鳥時代における創設から藤原氏の台頭まで
右大臣という名称が記録上に初めて現れるのは、飛鳥時代の天智天皇10年(671年)である。このとき、大友皇子が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、そして中臣金(なかとみのかね)が右大臣に任じられた。その後、飛鳥浄御原令や大宝律令を通じて制度として確立していく。
平安時代に入り、藤原北家が台頭して摂関政治を確立する過程で、右大臣のポストは極めて重要な意味を持った。藤原氏の有力者は、多くの場合、まず右大臣に任じられて政権の中枢に入り、その後、左大臣や太政大臣へと昇進して摂政・関白を務めるという出世ルートを歩んだ。権力闘争の舞台において、右大臣の地位を獲得することは、政界の頂点を目指すための不可欠なステップであった。
武家政権時代から近代への継承と終焉
鎌倉時代以降、政治の実権が武家に移ると、太政官の職は実質的な行政権を失い、朝廷内の儀式や名誉を司る官職へと変化していった。しかし、右大臣という官職名は高い権威を持ち続けた。例えば、鎌倉幕府第3代将軍の源実朝は武家として初めて右大臣に昇り、のちには織田信長や徳川家康らも右大臣に任官している。武家の最高権力者たちにとって、右大臣の地位は自らの支配を権威づけるための重要な装置として機能したのである。
時代を下り、明治維新後の1869年(明治2年)に太政官制が復活すると、右大臣の職も再び実質的な国政の要職として復活した。三条実美や岩倉具視らがこの職に就き、近代国家建設の黎明期を指導したが、1885年(明治18年)の内閣制度創設に伴い、太政官制とともに右大臣の職は廃止され、飛鳥時代から1000年以上にわたる長い歴史に幕を下ろした。