漢詩文 (かんしぶん)
【概説】
中国の漢字と作詩・作文の規則を用いて作られた詩歌や文章のこと。古代日本の朝廷において官人や貴族が習得すべき必須の教養であり、国家の威信を示す外交や政治の道具としても重んじられた。
遣隋使・遣唐使と漢詩文の受容
日本における漢字の受容は古墳時代から始まっていたが、文学や教養としての「漢詩文」が本格的に形作られたのは飛鳥時代、特に7世紀後半の天智天皇・天武天皇の時代である。この時期、遣隋使や遣唐使の派遣を通じて、留学生や留学僧が中国(隋・唐)の高度な律令制度や仏教とともに、洗練された文学を日本へ持ち帰った。大陸の使節と対等に渡り合い、東アジア世界における日本の主権と文化水準を示すためには、外交文書や贈答歌において漢詩文の作法を身につけることが不可欠であった。このように、実務的な漢字の使用から、政治的・思想的・感情的な表現手段としての漢詩文へと昇華していったのである。
『懐風藻』の誕生と貴族社会の教養
天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻(かいふうそう)』は、日本最古の漢詩集として知られる。ここには天智天皇やその子である大友皇子(弘文天皇)、大津皇子をはじめ、飛鳥時代から奈良時代中期にかけての皇族や有力貴族、僧侶らの作品が収録されている。当時の貴族社会において、漢詩文を創作する能力は、個人の高い教養や政治的な実力を示す重要なステータスであった。朝廷や宮廷で催された宴(うたげ)では、天皇の御前で詩を詠み合う詩宴が盛んに行われ、これを通じて天皇への忠誠や貴族間の結束が確認されたのである。
「文章経国」の思想と平安時代への展開
平安時代初期の嵯峨天皇の時代になると、漢詩文は「文章経国(もんじょうけいこく)」、すなわち文芸・学問こそが国家を治め繁栄させる基盤であるという思想のもとで最高潮に達した。嵯峨天皇の命により、日本初の勅撰漢詩集である『凌雲集(りょううんしゅう)』が編纂され、続いて『文華秀麗集』『経国集』という「勅撰三代集」が次々と成立した。官吏登用試験を司る大学寮では、漢文学や歴史を学ぶ紀伝道(きでんどう)が最重要視され、菅原道真などの優れた文人が台頭することとなる。のちに平安中期にかけて国風文化が発達し、仮名文字による和歌や物語が流行するが、これらも漢詩文の深い素養(「和魂漢才」)があって初めて生まれたものであり、漢詩文は日本の文化基盤を形作る重要な役割を果たし続けた。