房戸 (ぼうこ)
【概説】
律令制下の戸籍制度において、公式な行政単位である「郷戸(ごうこ)」の内部に画定された、より小規模な実際の家族単位。直系家族とその配偶者や隷属民などで構成され、実生活および農業生産における実質的な基礎となった。
郷戸・房戸制と戸籍制度の展開
飛鳥時代末期の大宝律令(701年)の制定にともない、律令国家は人民を系統的に把握・支配するための戸籍制度を本格的に整備した。大宝2年(702年)の「大宝度戸籍」にみられる特徴的な家族形態が、この郷戸と房戸による二重構造である。行政上の正式な「戸」である郷戸は、複数の親族集団を含む20〜30人以上(時には数十人)からなる大家族として登録されていた。しかし、これらは租税徴収や兵士徴発などの行政的な都合からまとめられた「擬制的」な大世帯にすぎなかった。そのため、郷戸の内部に、実際に寝食をともにし、共同して農業生産を行う小規模な直系家族の単位が必要とされ、これが「房戸」として設定されたのである。
実質的な生活・生産単位としての機能
房戸は平均して10人前後の規模であり、夫婦とその子供、あるいは直系の親子を中心とする、実態に即した家族集団であった。律令国家が推進した班田収授法において、実際に口分田を耕作し、生活を営む主体となったのはこの房戸であった。国家は公式には郷戸を単位として課税(調や庸など)を行ったが、実際の徴収や労働力の供出は、この房戸ごとの経済力や労働力に依存せざるを得なかった。このように、房戸は形式的な国家支配の末端を支える、実質的な社会・経済の基礎単位として極めて重要な役割を果たしていた。
房戸の解消と小戸制への移行
しかし、擬制的な大家族である郷戸と、実態としての房戸という二重の戸制は、国家の過重な負担に耐えかねた農民の浮浪や逃亡、偽籍などの横行によって、急速に維持が困難となった。実態と乖離した郷戸を基準とした支配体系は機能不全に陥り、奈良時代前期の720年代(神亀年間)頃になると、国家は実態に合わせた戸制の再編を迫られることとなった。その結果、郷戸の中に房戸を包含する形式は廃止され、房戸に相当する実質的な小家族をそのまま「戸(郷戸)」として独立させる小戸制へと移行していった。この変化は、日本の古代国家が人民の個別的な直接支配へと大きく舵を切る契機となった。