公出挙 (古代律令期)
【概説】
古代の律令制下において、国家や国衙が財源確保と農民救済を目的として行った稲の貸付制度。春の端境期に種籾や食糧としての稲を農民に貸し出し、秋の収穫期に利息を上乗せして回収する仕組みであったが、のちに強制的に貸し付ける実質的な税へと変質した。
出挙制度の起源と「公」・「私」の区分
出挙(すいこ)の起源は、律令制以前から日本の農村共同体で行われていた、春の農繁期における種籾の貸し出しと秋の共同返済という相互扶助的な慣行にさかのぼる。大化の改新を経て律令国家が形成される過程で、この慣行が国家制度として組み込まれた。
制度としての出挙には、国司や郡司などの官司が公金(官物である稲)を原資として行う「公出挙」と、貴族や地方豪族が私的な富を貸し出す「私出挙」の2種類が存在した。律令政府は、私出挙によって豪族が農民を隷属化(非自由民化)することを防ぐため、私出挙の利率を制限する一方、公出挙を推奨して国家による人民支配の強化を図った。
大宝律令や養老律令の規定によると、公出挙の利率は当初年5割(50%)と定められ、のちに農民負担軽減のために年3割(30%)へと引き下げられた。これに対し、私出挙は年10割(100%)から後に年5割へと制限された。公出挙の利息として徴収された稲は利稲(りとう)と呼ばれ、国衙の重要な財源となった。
救済制度から「強制的な税」への変質
公出挙は本来、春窮期における農民の飢餓を防ぎ、農業生産力を維持するという勧農(農業振興)・社会保障的な側面を持っていた。しかし、律令財政が窮乏し、平城京の建設や大仏造立、対外緊張に伴う軍事費などの増大によって国衙(地方役所)の経費が不足すると、その性格は大きく変容した。
国司たちは、不足する地方経費(国用)を補うため、公出挙を「借りる必要のない富裕な農民」や、逆に「返済能力のない貧困層」に対しても、半ば強制的に割り当てて貸し付けるようになった。これにより、公出挙は農民救済のための金融措置ではなく、事実上の付加税(強制課税)へと変質した。返済が滞った農民は、自らの口分田を失ったり、浮浪・逃亡して戸籍から離脱したりする原因となり、律令制の基本である「人頭税支配」を揺るがす結果となった。
律令体制の崩壊と公出挙の税額化
平安時代に入ると、戸籍に基づく班田収授の励行が困難となり、人頭税である租・庸・調の徴収が激減した。これに対処するため、朝廷や国司はますます公出挙への依存度を強めた。9世紀には、諸国の国衙が運営費の大部分を公出挙の利息(利稲)で賄う体制が確立した。
この段階になると、実際に稲を貸し付けるプロセスすら省略され、最初から一定の土地(名田など)に対して公出挙の利息相当額を上乗せして徴収する「出挙の税額化」が進んだ。これは、人頭を基準とする課税から、土地を対象とする課税への転換を意味し、中世的な名主(みょうしゅ)による請作体制や、国衙領・荘園における新たな年貢・公事の体系へとつながっていく歴史的転換点となった。