義倉 (ぎそう)
【概説】
飛鳥時代末期の大宝律令によって制定された、飢饉や災害時の救済を目的とした公的な穀物備蓄制度。農民からその貧富の度合いに応じて主食以外の雑穀を強制的に徴収・貯蔵し、非常時の配給や種籾の貸し出しに充てられた。
律令制下における義倉の仕組み
義倉は、701年の大宝律令の制定にともない、民部省の管轄下で全国的に整備された。主な目的は、凶作や疫病、天災による飢饉が発生した際に、農民(公民)を飢えから救い、国家の基盤である農業経営を維持することであった。
備蓄される穀物は、主食かつ基本税目であった「稲(租)」ではなく、長期保存に適した粟(あわ)や麦、大豆などの雑穀が中心であった。徴収にあたっては、各世帯(戸)を資産状況に応じて9段階に分けた「戸等(ことう)」基準が用いられ、上戸・中戸など富裕な戸から多く徴収し、下戸などの貧困層は免除されるなど、一種の累進的な課税方式がとられた。集められた穀物は郡ごとに設置された「郡倉(ぐうそう)」に保管され、地方官である郡司によって管理された。
中国の制度受容と導入の背景
日本の義倉制度は、隋や唐などの中国王朝で行われていた同名の社会福祉制度を範としている。中国の隋代に長孫平が提唱した「社倉(のちの義倉)」が起源であり、唐代に国家的な制度として確立された。
当時の大和政権は、中国の高度な律令技術を導入して中央集権化(律令国家の形成)を推し進めていた。国家が機能するためには、戸籍に登録された農民(公民)から安定して「租・庸・調」や労役を徴収し続ける必要があった。そのため、天災によって農民が容易に没落・浮浪化することを防ぐセーフティネットとしての防災・救済システムが、国家支配の維持に不可欠と考えられたのである。
制度の変質と後世への影響
奈良時代から平安時代へと移行し、律令制が徐々に弛緩していくと、義倉の運用にも乱れが生じるようになった。地方官(国司や郡司)による備蓄穀物の不正な流用や、徴収の形骸化が進み、実際に飢饉が発生した際には十分な救済機能を発揮できないケースが増加した。さらに、律令制そのものの崩壊とともに、古代の義倉制度は次第に機能停止へと向かった。
しかし、「非常時に備えて地域社会で穀物を備蓄する」という思想とシステムは、その後の日本歴史において形を変えて受け継がれた。中世の社倉や、近世(江戸時代)に諸藩や幕府(寛政の改革における社倉・義倉の推奨など)によって広く整備された救荒制度は、この古代の義倉をルーツとしており、日本の社会保障の歴史において先駆的な意義を持つ制度であったといえる。