屋久島(掖玖島)

重要度

屋久島(掖玖島) (やくしま)

7世紀後半

【概説】
九州の南方海上に位置する島。古代史においては「掖玖(やく)島」などと表記され、7世紀後半の飛鳥時代から段階的に大和朝廷の支配下に組み込まれ、律令国家の南限として位置づけられた。

大和朝廷の南島経営と「掖玖人」の朝貢

大和朝廷による九州南端やさらに南方の島々(南島)への関心は、7世紀半ばの飛鳥時代から本格化した。文献上の初出としては、『日本書紀』の斉明天皇5年(659年)3月条に、吐噶喇(とから)の民とともに「掖玖人(やくびと)」が京にやってきたことが記されている。これらは当初、朝廷側からの主体的な統治ではなく、朝貢(貢物を奉じる外交関係)という形で始まったとされる。

天武天皇11年(682年)には「多褹(たね:種子島)人」や「掖玖人」が朝廷に方物を献上し、位階を授けられたという記述があり、天武・持統期を通じて朝廷による南方諸島の掌握が進行した。これらの地域は、大和の「王化(天皇の支配と徳)」が及ぶ南の限界として認識され、朝廷の権威を内外に示す上で象徴的な意味を持っていた。

律令制の拡大と「南島路」としての地政学的価値

8世紀初頭、大宝律令の制定・施行(701年)と前後して、朝廷はこれらの地域に対する支配を実質的なものへと移行させた。大宝2年(702年)には「薩摩」や「多褹」が朝廷に反旗を翻したため軍が派遣され、制圧後の大宝2年(702年)から大宝4年(704年)頃にかけて多褹国(たねのくに)が設置された。屋久島はこの多褹国(のちに大隅国に併合)の一部として組み込まれ、正式な令制国として律令支配体制に位置づけられることとなった。

屋久島や種子島がこの時期に急速に服属された背景には、当時の東アジア情勢が深く関わっている。新羅との関係悪化や唐の進出に伴い、従来の朝鮮半島沿岸を通る遣唐使ルート(北路)の維持が困難となった。そのため、九州から南島を経由して東シナ海を横断する「南島路(南路)」が開拓されることになり、屋久島はその航路上の重要な給水地・寄港地、および航路の目印としての地政学的価値を急速に高めたのである。

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日本史一問一答(ランダム)

Q. 更新世の日本に生息し、長野県の野尻湖遺跡でその化石が大量に発見されたゾウの一種は何か?
Q. 邪馬台国の所在地をめぐる、大和地方(奈良県)とする説と、九州北部とする2大有力学説を何というか?
Q. 律令制下において、農民の成年男子(正丁)の3人に1人が徴兵されて編成され、諸国に置かれた軍隊組織を何というか?