司馬達等 (しばたちと)
【概説】
6世紀の古墳時代後期(飛鳥時代前夜)に中国あるいは朝鮮半島から渡来し、我が国における仏教公伝以前から私的に仏教を信仰していたとされる渡来人。のちの飛鳥文化において仏教美術の頂点を極めた仏師・鞍作鳥(止利仏師)の祖父にあたる。大和朝廷の実力者であった蘇我氏と深く結びつき、日本における初期仏教の受容と普及において先駆的な役割を果たした。
渡来の経緯と「仏教私伝」の先駆
司馬達等は、一説に継体天皇の時代(522年)に中国の南朝(梁)から朝鮮半島を経由して日本へ渡来したと伝えられる(『扶桑略記』など)。彼は大和国高市郡(現在の奈良県高市郡)に居を構え、独自のルートで入手した仏像を安置して礼拝を行っていた。これが、国家間で公的に仏教が伝わる(538年または552年の仏教公伝)以前に、渡来人のコミュニティや個人を通じて仏教が伝播していたことを示す「仏教私伝(私的受容)」の代表例である。
当時、倭国(日本)には固有の神々を祀る信仰(古神道)が根強く存在していたが、先進的な大陸文化を持つ渡来系氏族の間では、すでに仏教が精神的・技術的支柱として受容されていた。司馬達等はその象徴的な人物であり、彼の私信仰は単なる個人的な営みにとどまらず、朝廷の有力者たちに仏教の存在を認知させる契機となった。
蘇我氏との連携と「仏舎利」の奇跡
司馬達等の活動が本格的に歴史の表舞台に登場するのは、欽明天皇から敏達天皇の治世にかけてである。当時、新興の有力豪族であった大連の物部氏らが排仏派(神道重視)であったのに対し、大臣の蘇我稲目やその子の蘇我馬子は崇仏派(仏教受容)の立場をとっていた。達等はこの蘇我氏と深く結びつくことになる。
『日本書紀』などの記録によれば、敏達天皇の時代、蘇我馬子が仏法を熱心に信奉し、達等に命じて修行者を探させた。達等は高句麗の還俗僧であった恵便(えべん)を見つけ出し、馬子は彼を師として仏教の儀礼を整え始めた。また、達等の娘である「嶋」は出家して善信尼(ぜんしんに)となり、日本で最初の尼僧(出家者)となった。さらに、達等が斎会(さいえ)の席で米飯の中から仏舎利(釈迦の遺骨とされるもの)を発見し、これを蘇我馬子に献上したところ、鉄槌で叩いても潰れず、水に浮かぶという奇跡を起こしたという伝説が残されている。これらの事象は、蘇我氏が国家的な仏教受容を進めるにあたり、達等一族がいかに重要な技術的・精神的サポートを行ったかを示している。
飛鳥文化へ続く技術と系譜
司馬達等に始まる一族は、のちに「鞍作氏(くらつくりうじ)」と呼ばれる技術系渡来氏族へと発展した。鞍作氏は本来、馬具の製作などの高度な金属・木工加工技術を持つ職能集団であったが、その高度な造形技術はそのまま仏像の鋳造技術へと応用された。
達等の息子(または娘婿)である多須奈(たすな)も出家して仏像製作に関わったが、その一族の技術と信仰の結晶となったのが、達等の孫にあたる鞍作鳥(止利仏師)である。止利仏師は聖徳太子の絶大な信頼を得て、日本最古の本格的寺院である飛鳥寺の本尊「飛鳥大仏(釈迦如来坐像)」や、法隆寺金堂の「釈迦三尊像」など、北魏様式の硬質な美しさを持つ飛鳥仏を次々と制作した。このように、司馬達等が日本に植えた仏教信仰の種は、わずか3代のうちに飛鳥文化を代表する仏教美術の花として見事に開花することとなったのである。