連 (むらじ)
【概説】
ヤマト政権において、特定の職務を世襲して朝廷に奉仕した有力豪族に与えられた姓(かばね)。主に皇室の祖先以外の神の末裔とされる「神別(しんべつ)」の氏(うじ)が名乗り、「臣(おみ)」とともに国政の枢機に参画する最高位の身分として機能した。
ヤマト政権における「連」の地位と職掌
古墳時代中期から後期にかけて、ヤマト政権(大和朝廷)が全国的な支配権を確立していく過程で、豪族たちを統制し、政治的秩序に組み込むための身分制度として氏姓制度(うじかばねせいど)が形成された。「連(むらじ)」は、この制度下において「臣(おみ)」と並んで最高位に位置づけられた称号(姓)である。
連を賜った氏族は、主に神別(しんべつ)と呼ばれる、天神地祇(皇室の祖先以外の神々)の末裔を称する豪族たちであった。特定の地域に地縁的な基盤を持ち、皇別(天皇の末裔)とされた「臣」に対し、「連」は朝廷において特定の職能を世襲し、大王(天皇)に直属して奉仕する性格を強く持っていた。代表的な氏族として、軍事や刑罰を担った大伴氏や物部氏、神事や祭祀を司った中臣氏や忌部氏などが挙げられる。彼らは、それぞれの職務に応じた品部(しなべ)と呼ばれる職業集団や、実務を担う伴造(とものみやつこ)といった中下級の豪族を統率し、朝廷の行政・儀礼において不可欠な役割を果たした。
大連の台頭と権力闘争
連の中でも特に有力な者は大連(おおむらじ)に任じられ、臣の代表である大臣(おおおみ)とともに国政を牽引した。6世紀前半には、大伴金村が大連として権勢を振るったが、任那(みまな)四県の百済への割譲問題などを機に失脚した。その後は大連として物部尾輿や物部守屋が台頭し、強大な武力を背景に政権内で大きな権力を持った。
しかし、6世紀後半に入ると、新興の豪族であり大臣に任じられた蘇我氏(蘇我稲目・馬子)との間で激しい権力闘争が勃発する。特に仏教公伝をめぐる崇仏論争は、古来の神祇祭祀を司り伝統を重んじる連の代表たる物部氏・中臣氏(廃仏派)と、新たな国際的イデオロギーを積極的に取り入れようとした蘇我氏(崇仏派)との対立という図式をとった。最終的に587年の丁未の乱(ていびのらん)で物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされると、大連の地位は実質的に消滅し、以後の国政は蘇我氏が独占していくこととなった。
八色の姓による変容と形骸化
飛鳥時代後期、律令国家の形成が進む中で、古い氏姓制度は天皇を中心とする新たな中央集権的官僚制へと再編されていった。684年(天武天皇13年)、天武天皇は皇室を中心とする新たな強固な身分秩序を構築するため、八色の姓(やくさのかばね)を制定した。
この抜本的な制度改正により、それまで「連」を名乗っていた有力氏族のうち、壬申の乱などで天武天皇に功績のあった神別の50氏(中臣氏や忌部氏など)には、新たに第3位の「宿禰(すくね)」という上位の姓が与えられた。その結果、本来の「連」という称号自体は八色の姓の中で第7位へと大幅に格下げされ、地方豪族や下級官人層が名乗る姓へと変容した。こうして、かつて大王の側近として軍事や祭祀を司り、国政を動かした最高位の称号としての「連」は形骸化し、その歴史的役割を終えることとなった。