物部氏

重要度
★★★

物部氏 (もののべうじ)

?〜587年

【概説】
古墳時代から飛鳥時代にかけてヤマト王権の中枢を担った、最高位の「連」の姓を持つ有力な中央豪族。大伴氏とともに軍事や刑罰、祭祀を担当し、6世紀の仏教伝来に際しては強硬な排仏派の筆頭として崇仏派の蘇我氏と激しく対立した。最終的に蘇我氏との武力衝突(丁未の乱)に敗れ、本宗家は滅亡した。

ヤマト王権における出自と職掌

物部氏は、日本神話において天孫降臨よりも前に大和地方へ降臨したとされる饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖神とする有力な豪族である。ヤマト王権内においては、最高位の姓(かばね)の一つである「(むらじ)」を称した。彼らは全国に分布する「物部(もののべ)」と呼ばれる軍事・警察を担う職業部(品部)を、伴造(とものみやつこ)として管轄していた。また、大和国山辺郡にある石上神宮(いそのかみじんぐう)を氏神とし、そこに収蔵される神宝や武器の管理・祭祀を取り仕切るなど、武力と神祇信仰の双方と深く結びついた存在であった。

磐井の乱の平定と軍事氏族としての台頭

5世紀から6世紀にかけて、物部氏は大伴氏とともにヤマト王権の軍事的な中核として台頭した。特に6世紀前半の継体天皇の時代には、大連(おおむらじ)の物部麁鹿火(もののべのあらかび)が、筑紫国造による大規模な反乱である磐井の乱(527年)の鎮圧軍を率い、これを平定する多大な功績を挙げた。その後、同じく軍事を担っていた大伴金村が朝鮮半島の任那四県割譲問題の責任を問われて失脚すると、物部氏は軍事・刑罰の最高責任者として朝廷内で単独の権勢を振るうようになった。

仏教公伝と蘇我氏との激しい権力闘争

6世紀中頃、百済の聖明王から日本へ公式に仏教が伝来(仏教公伝)すると、朝廷内は仏教の受容をめぐって二分された。渡来人との結びつきが強く、新興の財政・外交担当として台頭しつつあった大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)が仏教の積極的な受容を主張(崇仏派)したのに対し、伝統的な神祇祭祀と軍事を担う大連の物部尾輿(もののべのおこし)は、神祇官を司る中臣鎌子とともに強硬な排仏派としてこれに反対した。

物部氏は、国内で発生した疫病の流行を「外国の神(蕃神)を祀ったことに対する日本の国神の怒りである」と主張し、仏像を難波の堀江に投げ捨て、伽藍を焼き払うなどの激しい排仏運動を展開した。この対立は単なる宗教論争にとどまらず、ヤマト王権の主導権をめぐる「伝統的保守勢力」と「新興勢力」との不可避な権力闘争であった。

丁未の乱による本宗家の滅亡とその歴史的意義

尾輿と稲目の世代で火蓋を切った争いは、次代の物部守屋(もりや)と蘇我馬子(うまこ)の時代に最高潮に達する。用明天皇の崩御後、皇位継承問題(穴穂部皇子を推す物部氏と、泊瀬部皇子を推す蘇我氏の対立)が絡む形で、両者はついに武力衝突へと発展した。

587年、蘇我馬子は諸皇子や他の豪族を糾合して物部守屋の討伐に乗り出した(丁未の乱)。守屋は本拠地である河内国渋川の館(現在の大阪府八尾市)で一族を率いて強固に抗戦したが、激戦の末に射殺され、物部氏の本宗家は滅亡した。これにより、ヤマト王権における蘇我氏の覇権が確立し、日本は仏教を中心とした国家形成(飛鳥文化への移行や中央集権化)へと大きく舵を切る決定的な転換点を迎えることとなった。

物部氏のその後と石上氏への改姓

守屋の敗死によって本宗家は滅亡し、広大な領地や部民は没収されたものの、物部氏という氏族そのものが完全に歴史から姿を消したわけではない。蘇我氏に味方した者や地方に土着した傍流の者たちは存続を許された。のちに飛鳥時代後期の壬申の乱(672年)で天武天皇側について活躍した物部麻呂(石上麻呂)は、氏神である石上神宮にちなんで「石上氏(いそのかみうじ)」へと改姓し、奈良時代には左大臣という朝廷の最高位にまで登り詰めた。このように、物部氏の血脈と伝統は形を変えながらも後の時代まで受け継がれていったのである。

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