糟屋屯倉 (かすやのみやけ)
528年
【概説】
筑紫君磐井の乱の後、その子である葛子がヤマト政権に献上した屯倉。現在の福岡県糟屋郡および福岡市東区付近に比定される、ヤマト政権による九州北部支配の拠点となった直轄地。
磐井の乱の戦後処理と糟屋屯倉の成立
6世紀前半の継体天皇期、朝鮮半島(任那・百済)への介入を強めるヤマト政権に対し、新羅と結んだ筑紫の有力豪族・筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)が反乱を起こした(磐井の乱)。528年、ヤマト政権の将軍・物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって磐井が破られ乱が鎮圧されると、磐井の息子である筑紫君葛子(くずこ)は、父の反乱に連座して死罪に処されることを免れるため、自身の領地の中から最も肥沃な土地であった糟屋(かすや)の地を王権に献上した。これが糟屋屯倉(かすやのみやけ)の起源である。
九州北部における屯倉設置の歴史的意義
糟屋屯倉の成立は、ヤマト政権による地方統治のあり方に大きな転換をもたらした。筑紫の地は朝鮮半島や中国大陸に対する外交・軍事の要衝であり、ここに王権の直轄領(屯倉)が置かれたことは、ヤマト政権が九州北部に強固な直接支配の足がかりを得たことを意味する。これ以降、ヤマト政権は各地の豪族の反乱や服属を機に屯倉を全国へ増設していき、従来の部民制や国造制を再編しながら、中央集権的な国家体制(律令制)の形成へと大きく舵を切ることとなった。