中臣氏

重要度
★★

中臣氏

【概説】
古代の大和政権において、祭祀(神事)を司った有力豪族。姓(かばね)は「連(むらじ)」。神話の天児屋命(あめのこやねのみこと)を祖と仰ぎ、仏教伝来時には物部氏と結んで排仏を主張したが、のちに中臣鎌足が出て大化の改新を主導し、藤原氏の祖となった。

大和政権における祭祀氏族としての出自

中臣氏は、記紀神話において天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴したとされる天児屋命(あめのこやねのみこと)を始祖とする。大和政権(大和朝廷)においては、同様に祭祀を担った忌部氏(いんべうじ)とともに、神事や祭祀、ト占(ぼくせん)などを専門的に司る伝統的な氏族であった。姓(かばね)は地縁的な豪族に多い「臣(おみ)」ではなく、特定の職能をもって王権に奉仕する氏族に与えられた「(むらじ)」を称した。「中臣(なかとみ)」という名称は、神と人との「仲立ち(媒介)」をするという意味に由来するとされている。

仏教伝来と排仏論争での動向

6世紀、百済の聖明王から朝廷に仏教が伝来(仏教公伝)すると、その受容をめぐって朝廷内で激しい対立が生じた。新来の宗教である仏教の受け入れを主張する大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)ら「崇仏派」に対し、中臣氏は大連(おおむらじ)の物部尾輿(もののべのおこし)らとともに「排仏派」を形成した。中臣氏(当時の中臣鎌子など)が排仏を主張した背景には、古来の国津神・天津神を祀る神事・祭祀を職掌とする同氏にとって、外来の「他国の神(仏)」を受容することは、自らの政治的・宗教的権威を根本から揺るがす死活問題であったからである。この対立はのちに蘇我馬子と物部守屋の武力衝突へと発展し、物部氏の滅亡とともに中臣氏も一時的に政治の表舞台から後退することとなった。

中臣鎌足の登場と藤原氏への展開

政治的主導権を握った蘇我氏が権力を極めるなか、7世紀半ばに中臣氏の傍流から中臣鎌足(なかとみのかまたり)が登場する。鎌足は、伝統的な神職を拒み、蘇我氏の専横に不満を持つ中大兄皇子(のちの天智天皇)と密かに結託した。彼らは645年の乙巳の変において蘇我入鹿を暗殺し、続く大化の改新において新政権の枢軸(内臣)として中央集権的な律令国家体制の構築に尽力した。鎌足はその臨終に際し、天智天皇から「藤原」の姓を賜り、ここに中臣氏の主流は日本最大の貴族家系である藤原氏へと脱皮することとなった。なお、鎌足の弟の系統などはその後も「中臣氏」として残り、引き続き神祇官(じんぎかん)などの要職を占めて朝廷の祭祀を担い続けた。

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