八角墳 (はっかくふん)
【概説】
古墳時代終末期(7世紀中葉〜後半)に築造された、平面が八角形を呈する極めて特殊な古墳。大王(のちの天皇)やそのきわめて近い親族のみに採用された最高位の墳形であり、東アジアの思想的影響を受けながら天皇の権威を象徴するために生み出された墓制とされる。
前方後円墳の終焉と「八角墳」の出現
日本の古墳時代を象徴する前方後円墳は、6世紀末頃を境に築造されなくなった。それに代わり、7世紀に入ると畿内では方墳や円墳が主流となるが、その中で大化の改新(645年)前後の時期に突如として出現したのが八角墳である。最初の八角墳とされるのは舒明天皇の陵墓とされる段ノ塚古墳(奈良県桜井市)であり、その後、斉明天皇の陵墓とされる牽牛子塚古墳(奈良県明日香村)、天武・持統天皇の合葬陵とされる野口王墓古墳(奈良県明日香村)など、大王(天皇)クラスの墓として相次いで築造された。
従来の古墳が地域首長間の連合体としての性格を反映していたのに対し、八角墳は特定の最高権力者である「大王」個人の生前の権力を誇示する記念碑へと変化している点が特徴である。墳丘の周囲には精密に加工された石材が巡らされ、高度な土木技術と莫大な労働力が集中的に投入された。
天子思想の受容と天皇制の確立
なぜこの時期に「八角形」という特異な形状が採用されたのかについては、当時の中国(唐)を中心とする東アジアの思想・宗教観が深く関わっている。中国の政治思想(道教や儒教)において、「八角」は宇宙の全方位(八方)を支配する中心を意味し、地上における唯一の統治者である「天子(皇帝)」を象徴する形状であった。
大化の改新以降、日本(倭国)は唐の律令制度を模倣しながら、専制的な古代中央集権国家(律令国家)への歩みを進めていた。その過程において、従来の諸豪族を圧倒する超越的な存在として「天皇」という称号が誕生する。八角墳の採用は、自らを中華皇帝に匹敵する「天子」になぞらえ、諸豪族との身分秩序の絶対的な格差を視覚的に内外に示す政治的演出であったと考えられている。実際、被葬者が判明している八角墳は、すべて天皇(大王)またはその極めて近い血縁者に限定されており、当時の政治階層の頂点を示す格付けとして機能していた。
律令制の進展と薄葬化による終焉
八角墳は、7世紀後半の天武・持統朝から8世紀初頭の文武天皇期(中尾山古墳)にかけて最盛期を迎えるが、国家としての律令制がほぼ完成を見る8世紀以降には急速に衰退した。その背景には、大化の改新の薄葬令に象徴される「墳墓の簡素化」の思想や、仏教の国教化に伴う火葬の普及がある。
持統天皇が天皇として初めて火葬に付され、天武天皇の陵墓に合葬されたことは、巨大な古墳を築く動機そのものを希薄化させた。八角墳は、前方後円墳という日本固有の伝統的墓制が崩壊し、仏教に基づく薄葬・火葬へと移行していく激動の過渡期において、天皇という絶対的権力を世界に誇示するために生み出された、短命ながらも極めて象徴的なモニュメントであったといえる。