長谷川平蔵 (はせがわへいぞう)
【概説】
江戸時代中・後期の幕臣で、凶悪犯罪を取り締まる火付盗賊改の長官(頭)を務めた人物。寛政の改革期に老中・松平定信へ無宿人の自立支援施設である「人足寄場」の設置を提案・創設し、江戸の治安維持と社会福祉の融合に尽力した。
「鬼平」と恐れられた火付盗賊改の敏腕お頭
長谷川平蔵(家督相続後は通称の平蔵を名乗る。諱は宣以(のぶため))は、1787(天明7)年に江戸の治安維持を担う特務官職である火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)に就任した。当時は「天明の大飢饉」の直後であり、江戸市中では打ちこわしが頻発し、凶悪な強盗や窃盗団が跋扈(ばっこ)するなど社会情勢は非常に不安定であった。平蔵は独自の隠密組織や情報網を駆使して凶悪犯を次々と検挙し、その苛烈で迅速な捜査姿勢から、後世に「鬼平」の通称で小説やドラマのモデルとなるほどの強烈な印象を人々に残した。
しかし、平蔵の取り締まりは単に容疑者を厳罰に処すだけのものではなかった。罪を犯した者の背景にある貧困や社会の歪みに着目し、犯罪を未然に防ぎ、再犯を防止するための根本的な対策が必要であると痛感していたことが、のちの先駆的な福祉政策へとつながっていく。
人足寄場の創設と寛政の改革における意義
当時、地方での飢饉から逃れて江戸へ流入した「無宿(宗門改帳から除外された浮浪者)」が急増し、彼らが犯罪の温床となっていた。老中・松平定信が進める寛政の改革の一環として、平蔵は単なる排除や佐渡金山への島流し(大尽流し)といった厳罰化ではなく、彼らを保護して職業訓練を施し、社会復帰を促す更生施設の設立を定信に提案した。これが1790(寛政2)年、江戸隅田川河口の石川島(現在の東京都中央区佃付近)に設置された人足寄場(にんそくよせば)である。
人足寄場では、無宿人たちに大工、左官、紙すき、油絞りなどの技術を習得させ、作業手当(作業賃銭)の一部を貯蓄させて退所時の自立資金とさせた。この試みは、厳罰主義が主流であった近世において、福祉的・更生的な視点を取り入れた世界的に見ても極めて先駆的な制度であった。平蔵は人足寄場の初代の責任者(寄場取扱)を兼務し、幕府から与えられた予算の不足を補うために、自ら銭相場や金相場の差益を運用して運営資金を工面するなど、超法規的かつ並外れた行政手腕を発揮した。平蔵の死後もこの制度は継続され、幕末まで江戸の社会安定化に大きく貢献することとなった。