鑑真 (がんじん)
【概説】
奈良時代に唐から来日し、日本に正式な戒律を伝えて律宗の開祖となった高僧。日本からの要請に応じ、度重なる遭難や自身の失明といった苦難を乗り越えて渡海を果たした。東大寺での授戒や唐招提寺の建立を通じて日本の仏教界における僧侶の資格制度を確立し、天平文化にも多大な影響を与えた。
渡日の背景と日本仏教の課題
奈良時代の日本仏教は、国家の安泰を祈願する鎮護国家の思想に基づいて保護されていたが、重大な欠陥を抱えていた。それは、僧侶として守るべき規範である「戒律」を授け、正式な僧尼として認める制度(授戒制度)が存在しなかったことである。当時は税の負担から逃れるために自ら髪を剃って僧侶を名乗る私度僧(しどそう)が増加しており、朝廷にとって社会秩序の維持と国家仏教の統制は急務であった。
この事態を重く見た聖武天皇は、唐から正式な伝戒師(戒律を授けることのできる高僧)を招請することを決定した。733(天平5)年、遣唐使とともに留学僧の普照(ふしょう)や栄叡(ようえい)らが唐に渡り、日本に戒律を伝えてくれる高僧を探し求めた。しかし、渡海の危険性から日本への赴任を希望する者は現れず、彼らは揚州の大明寺で名声を博していた鑑真のもとを訪れ、懇願することとなった。
苦難の渡海と失明
普照と栄叡の要請に対し、鑑真の弟子たちは海の難所を越えることの危険を理由に沈黙した。しかし鑑真は、「仏法のためである、どうして身命を惜しもうか」と自ら日本へ渡ることを決意した。この時、鑑真はすでに50代半ばの老齢であった。
鑑真の渡海計画は、幾度も挫折を味わうこととなる。密航の嫌疑による役人からの妨害、暴風雨による遭難、さらには海南島への漂着など、計5回にわたって失敗を重ねた。この過酷な旅の中で、ともに苦難を歩んだ栄叡は病に倒れて客死し、鑑真自身も南方の過酷な気候と疲労から両目を失明してしまう。それでも鑑真の意志は揺るがず、753(天平勝宝5)年、第10回遣唐使の帰国船(大使・藤原清河、副使・吉備真備らが乗船)に密かに同乗し、6度目の挑戦にしてついに日本の薩摩国坊津(秋妻屋浦)への上陸を果たした。
日本における戒律の確立
754(天平勝宝6)年、平城京に迎えられた鑑真は、朝廷から熱烈な歓迎を受けた。東大寺大仏殿の前に仮の戒壇が設けられ、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめとする皇族や、400名以上の僧尼に対して、日本で初となる正式な授戒を行った。これにより、日本の仏教界において、定められた戒律を授かった者だけが正式な僧侶として認められるという厳格な制度が確立されたのである。
その後、東大寺には常設の戒壇院が建立され、のちに下野国の薬師寺(東国)、筑前国の観世音寺(西国)にも戒壇が設けられた。これらは「天下三戒壇」と呼ばれ、日本の僧侶資格を管理する重要拠点となった。鑑真自身は大僧都に任じられ、日本仏教界の最高権威として重きをなした。
唐招提寺の建立と天平文化への貢献
759(天平宝字3)年、鑑真は朝廷から旧・新田部親王の邸宅跡を与えられ、私寺として唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建した。この寺は戒律を学ぶための専門道場(律宗の総本山)として機能し、多くの学僧を育成した。現在も残る唐招提寺金堂は、奈良時代の寺院建築の白眉として高く評価されている。
鑑真の来日は、宗教面だけでなく文化面でも極めて大きな意義を持っていた。彼の渡海には多くの工匠や彫刻師、経典、美術工芸品が伴っており、唐の最先端の文化が直接日本にもたらされたのである。現在唐招提寺に安置されている国宝・鑑真和上坐像は、日本最古の肖像彫刻として知られ、写実的な天平彫刻の傑作である。また、鑑真は医薬に関する深い知識も持ち合わせており、彼がもたらした薬物に関する知識は日本の医学・薬学の発展にも大きく寄与した。鑑真は単なる宗教者にとどまらず、国際色豊かな天平文化の成熟を牽引した偉大な文化伝承者であったといえる。