戒律
【概説】
仏教において僧侶や尼僧が遵守すべき、自律的な道徳規範(戒)と共同体の集団規則(律)の総称。奈良時代、国家による仏教統制の強化と僧侶の質的向上を図るため、唐から招かれた高僧・鑑真によって正式な伝授制度がもたらされた。
「戒」と「律」の定義と国家統制における役割
仏教における「戒(かい)」とは、出家者や在俗の信徒が自発的に遵守すべき道徳的・倫理的な自己規律を指す。一方、「律(りつ)」とは、僧侶の修行共同体(サンガ)を維持するために定められた、罰則を伴う他律的な集団生活規則である。これらを総称したものが「戒律」であり、本来は出家者が修行者としての資格を得るための必須の要件であった。
奈良時代における日本仏教は、国家の保護のもとで平穏を祈る鎮護国家(ちんごこっか)の思想が主流であった。そのため、僧侶は実質的に国家の官僚のような存在であり、その身分は「僧尼令(そうにりょう)」という法律によって厳しく制限されていた。しかし、課役(税や労働)の免除を狙って勝手に出家する私度僧(しどそう)の横行が社会問題化しており、国家の側からも、僧侶の質を担保し、仏教界の規律を正すための「正式な授戒制度」の確立が強く求められていた。
鑑真の来朝と「本朝三戒壇」の確立
正式な授戒(じゅかい:戒律を授けること)の儀式を執り行うためには、すでにその資格を持つ高僧が一定数以上(原則として10人の僧)立ち会う必要があった。しかし、当時の日本にはその条件を満たす指導者が不足していた。そこで聖武天皇の意向を受けた留学僧の栄叡(ようえい)や普照(ふしょう)らは、唐の高僧であった鑑真(がんじん)の招聘に動いた。
鑑真は5度にわたる渡航の失敗と失明という苦難を乗り越え、天平勝宝6年(754年)に平城京へ到着した。彼は東大寺に日本初の戒壇(かいだん:授戒を行うための壇)を築き、聖武上皇をはじめとする多くの皇族や僧侶に授戒を行った。その後、国家による僧侶管理体制を全国に浸透させるため、東大寺のほかに筑紫の観世音寺(かんぜおんじ)、下野の薬師寺(やくしじ)にも戒壇が設立され、これらは「本朝三戒壇」と称された。これにより、国家公認の僧侶となるための制度的基盤が完成し、日本の仏教界は「国家が戒律の授受を通じて出家者を一元管理する」という強力な統制期を迎えることとなった。