遼
916年〜1125年
【概説】
10世紀初頭にモンゴル系の契丹(きったん)族が中国北部に建国した征服王朝。東アジアの覇権を握って日本と通交のあった隣国・渤海(ぼっかい)を滅ぼしたが、のちに女真(じょしん)族の金と宋の挟撃に遭って滅亡した。
渤海滅亡が日本に与えた衝撃
遼(契丹)の太祖・耶律阿保機(やりつあぼき)は、926年に日本と長年にわたり友好・貿易関係を維持していた渤海を滅ぼした。渤海は日本(平安時代)にとって、唐に代わる極東の重要な外交・文化・交易のパートナーであり、数多くの渤海使が来日して文化の交流が進んでいた。この渤海の滅亡は、平安朝廷に対して東アジア情勢の激変と、北方からの武力脅威という強い危機感を抱かせる契機となった。
平安朝廷の「外交拒絶」と独自の対外姿勢
渤海を制圧した遼は、さらなる勢力拡大の過程で日本にも通交を求めた。しかし、平安朝廷は遼を「渤海を滅ぼした道義に外れた野蛮な国(「無礼の国」)」と見なして嫌悪し、公式な国交樹立の要求をことごとく拒絶した。この姿勢は、894年の遣唐使の廃止以降、日本が大陸の政権交代や戦乱から距離を置く方針をより決定づけるものとなり、対外的な自閉傾向と日本独自の国風文化の成熟を間接的に促す要因となった。