契丹 (きったん)
916年〜1125年
【概説】
4世紀から14世紀にかけて、内モンゴルから満洲地域で活動したモンゴル系の遊牧民族。916年に耶律阿保機(やりつあぼき)によって「遼(りょう)」を建国し、日本の平安時代における東アジアの国際情勢に大きな影響を与えた勢力。
渤海の滅亡と東アジア秩序の激変
9世紀から10世紀の東アジアにおいて、日本(平安朝)は中国東北部の渤海(ぼっかい)と密接な外交・貿易関係を維持していた。しかし、926年に契丹が渤海を滅ぼしたことで、長年続いた「渤海使」を通じた北方の交易ルートは途絶することとなった。この契丹の急速な勢力拡大は、唐の滅亡(907年)以降の東アジア多極化を象徴する出来事であり、日本側に北方からの脅威に対する強い警戒感を抱かせる契機となった。
平安日本との関係と間接的交流
契丹(遼)は日本に対して通交を試みたが、平安朝は渤海を滅ぼした契丹を「無道」の国、あるいは中華の秩序から外れた「化外の民」とみなし、公式な国交の樹立を拒絶し続けた。これは、当時の日本が遣唐使の廃止(894年)以降、公式な国家間外交に対して消極的な姿勢をとっていたこととも深く関係している。その一方で、宋や高麗、あるいは商人の私的な交易ルートを介し、契丹錦(きったんにしき)などの高度な毛織物や特産品が日本に流入しており、平安貴族の間で珍重されるなど、間接的な文化的接触は存在していた。