大正政変
【概説】
1913年(大正2年)、第一次護憲運動の高まりと数万の群衆による国会包囲により、第3次桂内閣がわずか53日で崩壊した一連の政治的事件。藩閥政治から政党政治への転換を決定づけ、その後に続く大正デモクラシーの力強い出発点となった。
背景と発端:二個師団増設問題
大正政変の引き金となったのは、陸軍による二個師団増設問題である。1912年(明治45年/大正元年)、辛亥革命を機に大陸への影響力拡大を図る陸軍は、朝鮮駐留部隊の増強を理由に二個師団の増設を強硬に主張した。しかし、日露戦争後の財政難から緊縮財政路線を掲げていた第2次西園寺公望内閣はこれを拒絶する。
これに対し、陸軍大臣の上原勇作は単独で帷幄上奏権を行使して辞表を提出した。当時の軍部大臣現役武官制のもと、陸軍が後任の陸相を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。この軍部の横暴とも言える倒閣劇は、国民の強い反発を招くこととなった。
第一次護憲運動と第3次桂内閣の成立
西園寺の後継として、元老会議は長州藩閥の重鎮である桂太郎を首相に推奏した。桂は当時、内大臣兼侍従長として天皇を側近で補佐する宮中職にあったが、大正天皇の詔勅を利用してその職を辞退し、第3次桂太郎内閣を組閣した。この強引な人事は「宮中府中の別(皇室と国政の分離)」を乱すものとして、世論の激しい非難を浴びた。
こうした状況下で、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らが中心となり、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに掲げる第一次護憲運動が勃発する。新聞や雑誌を中心とするジャーナリズムもこれを大々的に支持し、都市部の知識人や商工業者、労働者を巻き込みながら、全国各地で護憲大会が開かれるなど運動はかつてない規模へと発展していった。
民衆の蜂起と内閣崩壊
1913年(大正2年)2月、議会が再開されると、日比谷公園などに集まった数万の群衆が国会議事堂を包囲し、桂内閣の退陣を激しく求めた。議場では尾崎行雄が「玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて政敵を倒そうとしている」と桂を痛烈に弾劾する演説を行い、議会内外の熱気は最高潮に達した。
桂は再び天皇の詔勅を引き出して政友会を抑え込もうと画策したが、もはや大衆の怒りに押された政党を従わせることはできなかった。自らの新党(のちの立憲同志会)結成による多数派工作も間に合わず、万策尽きた桂は組閣からわずか53日で内閣総辞職を余儀なくされた。この劇的な倒閣劇を大正政変と呼ぶ。
大正政変の歴史的意義
大正政変は、日本の近代政治史において極めて重要な画期である。それまでの内閣交代は元老を中心とする一部の特権階級による密室の調整によって行われていた。しかし、この事件によって民衆の直接的な政治行動と世論の圧力が内閣を倒し得るという事実が、憲政史上初めて証明されたのである。
この政変を境に、政治の主導権は絶対的な力を持っていた藩閥や官僚から、議会に基盤を置く政党へと徐々に移行していくこととなった。大正政変は、単なる一つの内閣崩壊の事件にとどまらず、その後の日本社会を席巻する自由主義的・民主主義的な政治思潮、すなわち大正デモクラシーの原点として深く刻まれている。