立憲同志会
【概説】
第3次桂内閣の退陣直前、桂太郎が自らの政権基盤となる政党の必要性を痛感して結成を企図し、のちに加藤高明を総裁として正式に発足した政党。官僚や実業家、非政友会系の政治家を糾合して誕生し、のちの憲政会、立憲民政党へと連なる戦前の二大政党制の一翼を形成する源流となった。
結成の背景と大正政変
明治末期から大正初期にかけての日本政治は、藩閥官僚勢力を率いる桂太郎と、衆議院の多数党である立憲政友会を率いる西園寺公望が交互に政権を担当する「桂園時代」と呼ばれる安定期にあった。しかし、1912(大正元)年末に陸軍の二個師団増設要求を機に第2次西園寺内閣が崩壊し、続いて第3次桂内閣が成立すると、世論はこれを長州閥と陸軍による横暴であると強く反発した。これが「閥族打破・憲政擁護」を掲げた第一次護憲運動である。
激しい大衆運動と議会内での政友会や立憲国民党からの猛烈な突き上げに直面した桂太郎は、藩閥や天皇の権威(詔勅)に依存する旧来の政治手法の限界を悟った。議会運営を安定させるためには自らの手足となる強力な政党が不可欠であると痛感した桂は、内閣存続の切り札として新党の結成を宣言し、政友会に対抗しようと企図した。しかし、新党の準備が整う前に議会や民衆の包囲網に屈し、わずか53日で第3次桂内閣は総辞職を余儀なくされた(大正政変)。
加藤高明による正式結成
桂太郎は新党結成の夢を抱いたまま、内閣退陣後の1913(大正2)年10月に急死する。しかし、彼の構想は側近や同調者たちに引き継がれた。同年12月、桂の盟友であり第3次桂内閣で外相を務めていた加藤高明を総裁として、立憲同志会が正式に結成された。
党の構成員には、後藤新平、若槻礼次郎、浜口雄幸といった優秀な官僚出身者のほか、大石正巳ら立憲国民党を離脱した勢力、さらには三菱財閥と深い関係を持つ加藤を中心とした実業家らが参加した。これにより立憲同志会は、地主や地方のブルジョワジーを主な基盤とする政友会とは異なり、都市の中間層や資本家、そして官僚層を支持基盤とする近代的な政党としての性格を持つことになった。
政界での躍進と憲政会への発展
結成直後の立憲同志会は野党として出発したが、1914(大正3)年にシーメンス事件によって第1次山本権兵衛内閣が倒れると、続く第2次大隈重信内閣において事実上の与党として政権の中枢を担うこととなった。総裁の加藤高明は外相として入閣し、第一次世界大戦への参戦や中国に対する「二十一カ条の要求」などを主導した。
さらに、1915(大正4)年に行われた第12回衆議院議員総選挙では、大隈内閣の国民的人気と大浦兼武内相による大規模な選挙干渉も背景に大勝を収め、長年議会を支配してきた政友会を破って衆議院の第一党へと躍進した。これにより、立憲同志会は政界において確固たる地位を築くことに成功した。
その後、1916(大正5)年に大隈内閣が退陣すると、次期政権を狙う加藤高明は党勢のさらなる拡大を図った。同年10月、立憲同志会は中正会や公友倶楽部などの小会派を吸収合併し、新たに憲政会を結成して発展的解消を遂げた。この憲政会はのちに立憲民政党へと再編され、大正デモクラシー期から昭和初期にかけて、立憲政友会と政権を交代し合う「憲政の常道(二大政党制)」の一翼を担うことになる。立憲同志会は、日本の政党政治が成熟していく過程において不可欠な対立軸を生み出した、極めて重要な歴史的源流といえる。