過度経済力集中排除法 (かどけいざいりょくしゅうちゅうはいじょほう)
【概説】
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導のもと、経済民主化政策の一環として制定された日本の法律。市場を支配していた巨大企業(独占企業)を分割・解体することで、自由な競争市場の確立を目指した。1947年4月に制定された独占禁止法(私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律)を補完する、強力な臨時措置法としての性格を持つ。
「経済民主化」と集排法制定の背景
第二次世界大戦後、GHQが断行した「三大経済民主化政策」の柱の一つが財閥解体であった。戦前の日本経済を支配し、軍国主義の物質的基盤となった財閥を解体するため、まず持株会社の整理や財閥家族の資産凍結が行われた。しかし、これらは持株会社という「支配の結節点」を排除するものであり、生産現場である巨大な事業会社そのものの独占的地位を解消するには不十分であった。
そこで、1947年4月に制定された独占禁止法の規定をさらに強め、現に存在する過大な経済力(独占的巨大企業)を直接分割・排除するための強力な特別法として、同年12月に過度経済力集中排除法(以下、集排法)が制定された。その執行機関には、財閥解体の中核を担っていた持株会社整理委員会が当てられた。
過酷な初期指定と日本経済の危機感
集排法の目的は、企業規模の大きさそれ自体を「悪」とし、競争を阻害する規模の企業を強制的に分割することにあった。1948年2月、持株会社整理委員会は、鉱工業部門257社、商業・サービス部門68社の計325社を過度経済力集中企業として指定した。この中には、日本製鐵や三菱重工業といった重工業から、三井物産・三菱商事などの巨大商社、果てはビールや乳製品の製造会社まで、日本を代表する主要企業が網羅されていた。
この徹底的な解体方針に対し、経済界のみならず、激しい戦後インフレと生産不振にあえぐ日本政府側からも、生産効率の低下や経済復興の遅延を懸念する強い反対の声が上がった。
冷戦の激化とアメリカの方針転換(逆コース)
集排法の運命を大きく変えたのは、当時の国際情勢、すなわち冷戦の激化である。1947年以降、米ソ対立が本格化すると、アメリカ政府内では「日本を弱体化させる」政策から、「日本を東アジアにおける反共の砦・自立した工業国として再建する」政策への転換が模索され始めた。
アメリカ国内の対日政策諮問機関や軍部からは、過度な経済解体は日本経済の自立を妨げ、米国の納税者の負担を増やすだけであるという批判が噴出した。これを受けてGHQは方針を緩和せざるを得なくなり、1948年5月に来日した「経済集中排除審査専門家グループ(デキャップ使節団)」の勧告に基づき、分割基準が大幅に緩和された。
その結果、実際に分割処分を受けたのは、日本製鐵(八幡製鐵と富士製鐵などに分割)、三菱重工業(東日本・中日本・西日本重工業に分割)、王子製紙(十條製紙・本州製紙・王子製紙に分割)など、指定された325社のうちわずか18社(うち分割は11社)にとどまった。本法は日本の巨大企業を根底から解体するはずであったが、冷戦という世界情勢の激変によって当初の目的は大きく縮小され、1955年に廃止された。