資本輸出
【概説】
国内で蓄積された豊富な資金(資本)を、より高い利潤を求めて海外へ直接投資し、現地の工場建設やインフラ整備などの事業を展開すること。日本においては、主に第一次世界大戦期の大戦景気によって蓄積された過剰資本を背景に、中国(特に上海や青島)への紡績工場進出という形で本格化した。
第一次世界大戦と「在華紡」の進出
日本における資本輸出が本格化したのは、第一次世界大戦による大戦景気(1915〜1920年)が契機であった。大戦中、ヨーロッパ諸国がアジア市場から後退した隙に、日本はアジア向けの輸出を独占し、未曾有の好景気となった。これにより、国内の財閥や巨大な紡績企業(独占資本)には莫大な資金が蓄積された。
大戦後、日本国内では労働運動の高まりやインフレによって賃金水準が上昇し、国内投資の利潤率が低下し始めた。そこで日本の紡績資本(東洋紡績や鐘淵紡績など)は、極めて安価な労働力と豊富な原料(綿花)が存在し、かつ巨大な市場でもあった中国(特に上海や青島)へ直接投資を行い、現地に大規模な工場を建設した。これらは在華紡(ざいかぼう)と呼ばれ、日本の資本輸出の代表格として中国市場を席巻した。
商品輸出から資本輸出への転換とその歴史的意義
経済史において、商品(綿糸や綿布など)を売る「商品輸出」から、工場を建てて生産を行う「資本輸出」への転換は、国家が独占資本主義(帝国主義)の段階に達したことを意味する。日本は日清・日露戦争を経て産業革命を達成し、第一次世界大戦を経て名実ともに帝国主義列強の仲間入りを果たした。資本輸出はその経済的な現れであった。
しかし、この資本輸出は中国現地との激しい摩擦を生むこととなった。日本の在華紡は低賃金で中国人労働者を酷使したため、現地では激しい労働争議が発生した。さらに、自国の資本と権益を守るために日本政府や日本軍が介入を強めたことは、中国の民族資本家や民衆の不満を爆発させ、1925年の五・三〇運動に代表される大規模な反日愛国運動へとつながっていった。このように、大正期に本格化した資本輸出は、昭和期における日中対立の深刻化の伏線となったのである。