講堂(唐招提寺) (こうどう)
【概説】
平城宮の東朝集殿を移築・改造した、唐招提寺の講堂。失われた平城宮の宮殿建築における、現存する唯一の貴重な遺構。
平城宮「東朝集殿」の移築とその歴史的背景
唐招提寺は、唐より幾多の苦難を乗り越えて来日した高僧・鑑真が、戒律を学ぶための私寺(修行道場)として759年(天平宝字3年)に創建した寺院である。この創建に際し、朝廷からの多大な支援の一環として、平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)が下賜され、寺の講堂として移築された。
朝集殿とは、朝政や朝儀の際に官人(貴族や役人)が控えるための宮殿施設である。当時、平城宮の朝庭(ちょうてい)の南側には東西に一対の朝集殿が配置されていたが、そのうちの東側の建物が解体・移築された。この移築は、聖武上皇や孝謙上皇、淳仁天皇らが鑑真をいかに厚遇し、その授戒制度の確立を国家規模で強力に支援していたかを示す象徴的な事象である。
宮殿建築から仏堂への改造と建築的特徴
現存する講堂は、宮殿から仏教寺院の「講堂」へと用途を変更するにあたり、天平時代における移築の際、および後世の修理の際にいくつかの大きな改造が加えられている。
本来の平城宮東朝集殿は、壁がなく柱のみで構成された極めて開放的な切妻造(きりづまづくり)の建物であったと考えられている。しかし、仏像を安置し学問を講じる場とするため、移築に際して建物の周囲に壁や建具(扉や窓)が新設され、屋根の形状も格式の高い入母屋造(いりもやづくり)へと変更された。
さらに、鎌倉時代の弘安年間(1275〜1288年)に行われた大修理の際にも改造が加えられた。このため、現在の外観には鎌倉時代の和様建築の特徴が強く表れている。しかし、内部に足を踏み入れると、天井を張らない「化粧屋根裏」となっており、当時の丸太を用いた大胆な梁(はり)や二重虹梁(にじゅうこうりょう)の構造など、平城宮を彩った天平の宮殿建築の力強い骨組みを今に伝えている。平城宮の往時の姿を実物として今に伝える唯一の木造建築として、極めて高い歴史的価値を有している。