志苔館

道南十二館の一つで、館の跡から大量の中国銭(備蓄銭)が入った甕が出土したことで有名な館はどこか?
カテゴリ:
重要度
★★

志苔館 (しのりたて)

14世紀頃~15世紀半ば

【概説】
北海道函館市志海苔町に築かれた、室町時代の城館(舘)跡。渡島半島南部に和人が進出して築いた道南十二館の一つであり、中世における和人とアイヌの交易や衝突の歴史を示す重要な遺跡。1968年に敷地近くから国内最大規模となる約38万枚の中国銭(古銭)が発見されたことで全国的に名を知られている。

道南十二館と和人の蝦夷地進出

鎌倉時代末期から室町時代にかけて、津軽地方の豪族である安藤氏(安東氏)の支配下にあった和人(本州からの移住者)たちは、交易や漁業の拠点を求めて北海道の渡島半島南部へと進出した。彼らは「館(たて)」と呼ばれる独自の軍事拠点を各地に築き、割拠した。これらのうち、主要な12の館を総称して道南十二館と呼ぶ。

志苔館はその中でも最東方に位置し、函館湾を一望できる海岸丘陵に築かれた。館主は小林氏(小林良景など)と伝えられ、本州との日本海交易における重要な中継港としての役割を担っていた。館の構造は、周囲を土塁と空堀で囲み、内部に建物や井戸を配した実戦的な中世城郭の形態を留めている。

国内最大規模の「志苔館埋蔵銭」とその謎

志苔館を歴史的に有名にしたのが、1968(昭和43)年に館跡の西側約200メートルの地点で発見された大量の埋蔵銭である。大容量の越前焼や珠洲焼などの大甕(おおがめ)3個に収められた状態で、総計37万4000枚以上にのぼる中国銅銭が出土した。これは一箇所の出土量としては日本国内で最大規模を誇る。

この大量の銭貨は、主に唐・宋・明の時代に鋳造された渡来銭であり、当時の蝦夷地(北海道)が本州を通じて東アジアの流通経済圏と密接に結びついていたことを如実に示している。なぜこれほどの巨万の富が埋められたのかについては、交易による莫大な富の備蓄説や、後述するアイヌとの戦乱(コシャマインの戦い)の緊迫の中で緊急に隠匿されたとする説、あるいは宗教的な埋納説などがあり、未だ謎に包まれている。

コシャマインの戦いと志苔館の落城

15世紀中頃、和人の進出にともない、従来から現地に居住していたアイヌとの間で経済的・社会的な摩擦が激化した。1456年、現在の函館市志海苔付近で、アイヌの少年が和人の鍛冶屋に小刀(マキリ)の注文をめぐって刺殺される事件が発生。これを契機に、1457(康正3)年にアイヌの首長コシャマインを中心とする大規模な蜂起(コシャマインの戦い)が勃発した。

アイヌの軍勢は猛烈な勢いで和人の拠点を襲撃し、志苔館をはじめとする道南十二館のうち10の館が次々と落城した。志苔館も当時の館主・小林良景が戦死し、一時機能を受け失った。この危機に対し、花沢館(上ノ国町)の客将であった武田信広(のちの松前氏の祖)がコシャマイン父子を射殺して乱を平定。この事件を契機に、松前氏の祖先となる蠣崎(かきざき)氏が道南の和人社会における主導権を握り、のちの松前藩へとつながる支配体制が確立されていくこととなる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 和紙の主要な原料として用いられた植物は何か。
Q. 戦国大名が、室町幕府の法律に頼らず、自らの領国を一元的に支配するために独自に制定した法律(家法)の総称を何というか?
Q. 秀吉から関白職を譲られたが、秀頼の誕生後に謀反の疑いをかけられて切腹させられ、一族も処刑された人物は誰か?