コシャマイン
【概説】
室町時代中期の1457年、蝦夷地(現在の北海道)南部において和人の不当な取引に抗議し、アイヌの人々を率いて大規模な蜂起を起こしたアイヌの首長。道南の和人の拠点を次々と陥落させたが、武田信広によって討ち取られた。和人とアイヌの本格的な軍事衝突の端緒として知られる。
和人の蝦夷地進出と経済的圧迫
15世紀頃の蝦夷地(現在の北海道)南部・渡島半島には、津軽海峡を越えて本州から渡海した和人が定着し、道南十二館と呼ばれる防塞を兼ねた居館を築いていた。和人たちは周辺のアイヌと交易を行い、アイヌからは鮭や昆布などの海産物や獣皮を受け取り、代わりに鉄製品や米、漆器などを提供していた。当初は互恵的な関係であったが、和人側の勢力が拡大するにつれ、不当な交換比率を押し付けるなど、アイヌに対する経済的な搾取と抑圧が次第に強まっていった。
マキリ(小刀)を巡る殺傷事件と一斉蜂起
1456年(康正2年)、志苔館(しのりだて)近くの鍛冶村で凄惨な事件が起きる。一人のアイヌの少年が和人の鍛冶屋にマキリ(小刀)の制作を依頼したが、製品の品質と価格をめぐって口論となり、怒った鍛冶屋がそのマキリで少年を刺殺してしまったのである。この理不尽な事件は、長年にわたって蓄積されていたアイヌの和人に対する不満を爆発させる決定的な導火線となった。
コシャマインの快進撃と和人社会の危機
翌1457年(長禄元年)、東部アイヌの有力な首長であったコシャマインを総大将として、アイヌの人々が一斉に蜂起した(コシャマインの戦い)。長年の鬱屈を晴らすかのように進軍するアイヌ軍の勢いは凄まじく、胆振から渡島半島にかけて点在していた和人の拠点である道南十二館のうち、実に10館を次々と攻め落とした。生き残った和人たちは茂別館と花沢館のわずか2館に追い詰められ、蝦夷地における和人社会は壊滅の危機に瀕した。
武田信広の台頭と蝦夷地支配の転換点
この絶体絶命の状況下で、上ノ国の花沢館主・蠣崎季繁の客将であった若き武田信広(若狭国出身とされる)が和人軍の総大将に推挙された。信広は残存する和人勢力を結集して反撃に転じ、七重浜(現在の北海道北斗市付近)での激戦の末、弓の名手であった信広自身がコシャマインとその子を射殺した。カリスマ的な指導者を失ったアイヌ軍は急速に瓦解し、乱は鎮圧された。
コシャマインの蜂起は、アイヌと和人の間で起こった最初の大規模な軍事衝突である。この戦乱を通じてアイヌの抵抗を武力でねじ伏せた武田信広は、和人社会における絶対的な地位を確立し、蠣崎氏の家督を継承した。これが江戸時代における松前氏へと連なり、後の和人による蝦夷地の独占的支配と、シャクシャインの戦いなどに至るアイヌへの過酷な収奪体制が形成されていく歴史的な大転換点となったのである。