土 (つち)
【概説】
明治末期の農村の現実を写実的に描いた、歌人・長塚節の代表的長編小説。茨城県の鬼怒川沿岸を舞台に、貧困に喘ぐ細農(小作農)の過酷な生活と、それを取り巻く大自然の推移を冷徹な視線で活写した、近代農民文学の記念碑的作品である。
「写生」の精神が生んだ近代リアリズムの傑作
著者である長塚節(ながつかたかし)は、正岡子規を師と仰ぎ、短歌結社「アララギ」の創立に関わった主要歌人として知られる。子規が提唱した、対象をありのままに観察して描写する「写生」の精神を、散文(小説)の領域において極限まで実践した成果がこの『土』である。
1910(明治43)年、夏目漱石の強い推薦によって『東京朝日新聞』で連載が開始された本作は、それまでのロマン主義的な田園小説とは一線を画していた。鬼怒川沿いの荒涼とした自然、泥にまみれた小作農たちの労働、茨城地方の方言、さらには不衛生な生活習慣にいたるまで、美化や誇張を一切排除した徹底的な写実主義(リアリズム)によって描き出されている。
日露戦争後の「地方荒廃」と明治地主制の過酷な現実
歴史的背景として、本作が描かれた明治末期は、日露戦争後の急激な資本主義発達の陰で、日本国内の農村社会が深刻な疲弊に直面していた時期にあたる。国家による富国強兵政策や地主・小作関係の固定化は、農村の下層を形成する貧農たちに過酷な負担を強いていた。政府はこれに対し、地方改良運動を展開して農村の再建と秩序維持を図ろうとしていたが、本作が活写したのはまさにその改良運動の美名の下で窒息しつつあった農村の「生の現実」であった。
主人公の貧農・勘次は、妻をお品を不衛生な堕胎手術の失敗によって失い、さらに自身も地主への借財や自然災害(水害)に追われ、精神的にも倫理的にも追い詰められていく。こうした描写は、美化された「素朴な農民」像を覆し、迷信や無知、貧困から生じるエゴイズムなど、当時の農地制度が内包していた構造的欠陥を鋭く告発するものとなった。
日本近代文学史における意義と評価
文学史において、『土』は島崎藤村らの自然主義文学の潮流に位置づけられつつも、独自の存在感を放っている。当時の自然主義小説が多く自己暴露や都市のインテリ層の苦悩を描いたのに対し、本作は「大自然の営み」と、その一部として泥にまみれて生きる「土着の人間」を叙事詩的に描き出した点で、日本の農民文学の先駆となった。
連載時、推薦者である夏目漱石は本作の価値をいち早く見抜き、「この書は百年の後必ず我等の子孫によって難有り(ありがたく)読まれる時が来るであろう」と序文で絶賛した。その予言通り、本作は単なる一小説の枠を超え、明治末期における地方社会のあり様を物語る、第一級の歴史的社会資料としても今日なお高く評価されている。