鎌倉時代に栄西が宋から持ち帰り、京都の栂尾や宇治で栽培されて武士や僧侶の間に広まった飲料は何か?
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【概説】
鎌倉時代初期に臨済宗の開祖・栄西が南宋から種を持ち帰り、華厳宗の明恵が京都の栂尾などで栽培を広めた嗜好品。当初は禅僧の眠気覚ましや特権階級の薬用として受容されたが、栽培地の拡大とともに武士や庶民にも普及した。南北朝時代の「闘茶」の流行や、室町時代以降の「茶の湯」文化、さらには商品作物としての茶業発展の基礎を築くなど、日本の経済・文化に多大な影響を与えた。

栄西による再伝来と『喫茶養生記』

日本における茶の歴史は、平安時代初期(弘仁・貞観文化期)に最澄や空海らが唐から持ち帰ったことに遡るが、当時は日本社会に定着しなかった。喫茶の風習が本格的に根付く契機となったのは、1191年に南宋に渡っていた臨済宗の開祖・栄西が帰国した際、茶の種子と抹茶の製法(点茶法)を持ち帰ったことである。

栄西は茶を「末代の仙薬」と称し、心身の健康を保つ薬としての効能を強く説いた。1214年には、二日酔いに苦しむ鎌倉幕府第3代将軍・源実朝に良薬として茶を献上し、その際に日本初の茶書である『喫茶養生記』を添えたというエピソードが『吾妻鏡』に記されている。鎌倉時代初期における茶は、主に禅宗寺院での修行中の眠気覚ましや、将軍家など一部の特権階級の薬用として消費されていた。

明恵による栂尾での栽培と「本茶」の誕生

栄西が南宋から持ち帰った茶の種子は、親交のあった京都・高山寺の華厳宗の僧・明恵に贈られた。明恵はこれを寺の近くの栂尾(とがのお)に植え、本格的な茶の栽培を開始した。栂尾の朝霧が立つ気候風土は茶の生育に極めて適しており、ここで生産された良質な茶はのちに「本茶(ほんちゃ)」と呼ばれ、最高級ブランドとして珍重されることとなる。

さらに明恵は、茶の栽培を山城国の宇治をはじめ、大和国、伊賀国、駿河国など各地に奨励して広めたと伝えられている。これが現在の日本有数の茶産地(宇治茶や静岡茶など)の起源である。生産地域の拡大に伴い、茶は単なる希少な薬用から、香りや味を楽しむ日常的な嗜好品へと性格を変え、商品作物としての価値を高めていった。

闘茶の流行と「ばさら」の文化

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、茶の生産量が増加し流通が活発になると、武士や悪党、裕福な庶民の間で喫茶の風習が急速に広まった。その代表的な現象が闘茶(茶寄合)の流行である。これは、数種類の茶を飲み比べ、栂尾産の「本茶」とそれ以外の産地の「非茶」を飲み当てる一種のギャンブルであった。

闘茶は、舶来品である高価な唐物(からもの)を飾り立てた豪華な会所で行われ、莫大な金品が賭けられた。これは、身分秩序を無視して華美や贅沢を好む新興武士階級のばさらの気風を象徴する娯楽となった。建武新政期に出された『建武式目』において闘茶が名指しで禁じられていることからも、当時の社会における流行の過熱ぶりが窺える。

室町時代への展開と産業的意義

南北朝時代に流行した闘茶のどんちゃん騒ぎは、室町時代に入ると足利将軍家の庇護のもとで次第に洗練され、同朋衆らによって作法や精神性を重んじる方向へと見直されていった。これが後に村田珠光や武野紹鴎、そして千利休によって大成される茶の湯(わび茶)へと繋がっていく。

経済・産業の面でも、鎌倉時代に蒔かれた茶の種は大きな実を結んだ。宇治などの茶産地は荘園領主や寺社、のちには戦国大名の保護を受けて発展し、製茶業や茶道具の生産、それらを流通させる茶商人(茶師)の活動など、多様な産業と流通網を中世日本に生み出した。栄西と明恵から始まった鎌倉時代の茶の普及は、日本の文化と経済の両面に極めて深い足跡を残したのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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