纒向遺跡

重要度
★★

纒向遺跡 (まきむくいせき)

3世紀前半〜4世紀

【概説】
奈良県桜井市に位置する、3世紀前半から4世紀初頭にかけての日本最大級の集落遺跡。従来の弥生集落とは異なる計画性を持ち、初期ヤマト政権の誕生地、あるいは邪馬台国の有力な比定地として極めて重視される遺跡である。

計画的な「都市」の出現と大型建物跡

纒向遺跡の最大の特徴は、それまでの弥生時代の主流であった自給自足的な環濠集落とは異なり、防御のための濠を持たない広大な計画都市の様相を呈している点である。遺跡の総面積は東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルに及び、当時としては他を圧倒する規模を誇る。また、遺跡内を流れる「纒向大溝」と呼ばれる導水路や、整然と区画された遺構群が発見されており、何らかの強力な指導力のもとで大規模な土木工事が行われたことを物語っている。

特に、2009年の発掘調査で検出された3世紀前半の大型建物跡(掘立柱建物跡)は、当時の建築技術の枠を集めた極めて整然とした配置を構成しており、初期王権の「宮殿」あるいは祭祀を行う中枢施設であった可能性が高い。この建物群の軸線が、太陽の運行や周囲の聖なる山々(三輪山など)を意識して配置されていることも、ここが政治・祭祀の中心的空間であったことを裏付けている。

列島各地を結ぶ広域ネットワーク

纒向遺跡から出土する土器の分析からは、この地が日本列島における広域な政治的連合の中心であったことが窺える。遺跡から出土する遺物のうち、畿内以外の地域(東海、吉備、北陸、近江、さらには関東や九州など)から持ち込まれた外来系土器が全体の約15%におよび、特定の遺構ではその割合が3割を超えることもある。これは、日本列島の広範な地域から人々がこの地に集まり、物流や労働力の結節点として機能していたことを意味している。

また、吉備地方発祥の「特殊器台・特殊壺」が纒向の祭祀に導入されていることも極めて重要である。こうした各地の祭祀文化の融合と政治的ヘゲモニーの統合が進む中で、のちの古墳時代に共通の埋葬儀礼(前方後円墳体制)が形作られていく基礎が、この纒向の地で醸成されたと考えられる。

「箸墓古墳」と邪馬台国畿内説への展望

纒向遺跡の展開時期は、中国の史書『魏志倭人伝』に描かれた邪馬台国の時代、および女王卑弥呼の活動期(3世紀前半〜半ば)と完全に重なる。そのため、本遺跡は「邪馬台国畿内説」を補強する考古学的な最大根拠となっている。特に、纒向遺跡の範囲内に位置する箸墓古墳(全長約280メートル)は、最古の本格的な巨大前方後円墳として知られており、その築造年代や規模から、卑弥呼の墓である可能性が極めて高いと指摘されている。

纒向遺跡の周辺には「纒向型前方後円墳」と呼ばれる最初期の古墳群(石塚古墳、矢塚古墳など)が点在しており、弥生時代の墳丘墓から古墳時代への過渡期の様相をクローズアップしている。邪馬台国がそのままヤマト政権へと発展したのか、あるいは異なる政治勢力による交替劇があったのかについてはなお議論があるものの、纒向遺跡が日本における国家形成期(古墳時代の幕開け)の画期を示す超一級の遺跡であることは疑いようがない。

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日本史一問一答(ランダム)

Q. 武烈天皇の死後に後継者がいなかったため、大伴金村らに推戴されて越前(または近江)から迎えられ即位した大王(天皇)は誰か?
Q. 聖徳太子が物部氏との戦勝を祈願して発願し、難波(現在の大阪市)に建立されたとされる寺院はどこか?
Q. 弥生時代の集落の周囲に防御のために設けられた、深く掘った溝と、掘り上げた土で造られた壁をそれぞれ何というか?