情報局

1940年、内務省や外務省などに分散していた情報・宣伝機能などを統合し、内閣直属に設置された思想・言論統制の最高機関は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
情報局(Wikipedia)

情報局

1940〜1945年

【概説】
昭和戦時期の1940年に、第2次近衛文麿内閣によって設置された国家機関。それまで各省庁に分散していた言論・出版・報道・文化活動の統制・検閲機能や、対内外的な宣伝(プロパガンダ)活動を一元的に管轄し、総力戦体制における国民の戦争協力と戦意高揚を強力に推進した。

国家による情報・言論統制の一元化と「情報局」の誕生

1937年(昭和12年)の日中戦争勃発以降、日本政府は国民を戦争へと動員するため、情報・思想の管理を急速に強めていった。当初、情報の管理や検閲、国策宣伝は、内務省(出版・興行の検閲)、外務省(対外宣伝)、陸軍省・海軍省(軍事報道・軍事普及)、逓信省(放送・通信の監督)などに分散していた。これら各省の縦割りによる弊害を解消し、国家的な意志統一をはかるため、1937年に内閣直属の「情報委員会」が、1938年には「情報部」が設置された。

そして1940年(昭和15年)12月、第二次近衛文麿内閣が進める新体制運動(大政翼賛体制の構築)の一環として、これらをさらに強力に統合した情報局が発足した。情報局は内閣総理大臣の直轄機関とされ、初代総裁には元外務次官の栗原正が就任した(のちに天羽英二や下村海南らが務めた)。これにより、国家による情報統制・国策宣伝の体制は、一元的に完成されることとなった。

報道・文化活動への介入と強圧的な言論統制

情報局は、新聞、雑誌、映画、演劇、文学、音楽、ラジオ放送など、国民の思想や娯楽に関わるあらゆる領域に介入した。報道分野においては、用紙制限や検閲を通じて新聞社の整理統合を断行し、最終的には「一県一紙」体制へと縮小させて情報の管理を容易にした。また、同盟通信社を通じて配信される「大本営発表」や政府公認のニュースのみを国民に流す仕組みを構築した。

文化・芸術分野においては、作家や芸術家を国策に協力させるため、日本文学報国会大日本言論報国会などの国策団体の結成を指導・監視した。国策に合致する「戦争文学」や「戦意高揚映画」の制作を奨励する一方で、リベラルな思想や反戦的な表現、アメリカやイギリスなどの「敵性文化」を徹底的に排除した。これにより、日本の思想・言論空間は画一化され、国民は客観的な状況を知る術を失っていった。

総力戦体制の破綻と情報局の解体

太平洋戦争が激化し、戦況が日本にとって決定的に不利に傾くなかでも、情報局は「一億玉砕」や「本土決戦」といったスローガンを掲げ、国民に対して徹底抗戦を促す宣伝活動を継続した。事実を隠蔽した歪んだ情報空間の維持は、国民に無謀な戦争継続を強いる要因となった。

1945年(昭和20年)8月の敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)による占領統治が始まると、情報局が担っていた検閲やプロパガンダ機能は、民主化と軍国主義排除の観点から解体の対象となった。そして同年12月、情報局官制の廃止にともない、同局は正式に解体された。情報局の興亡は、国家が情報の独占と操作を行うことで、いかに国民の精神を統合し、破滅的な戦争へと駆り立てていったかを示す、近代日本における象徴的な事例である。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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