第3次日露協約
【概説】
辛亥革命による中国大陸の動乱を契機として、日本とロシア帝国の間で締結された第3回目の協調協定。従来の満洲における勢力圏の確認にとどまらず、新たに内蒙古(内モンゴル)を東西に分割して両国の特殊権益地域と定めた二国間条約。
辛亥革命の勃発と日露の接近
日露戦争(1904〜05年)の終結後、日本とロシアは敵対関係から一転して協調関係へと移行した。1907年の第1次、1910年の第2次日露協約を通じて、両国は清朝支配下の満洲(中国東北部)におけるそれぞれの勢力圏(南満洲を日本、北満洲をロシア)を相互に承認し合い、アメリカなどの新興勢力の進出を阻んできた。
このような状況下、1911年10月に中国で辛亥革命が勃発する。清朝の支配力が急速に衰退し、翌1912年に中華民国が建国されるという大激変のなかで、満洲や隣接する蒙古(モンゴル)地域における秩序の空白が生じた。これを自国の権益拡大の好機と捉えた日本(第2次西園寺公望内閣)とロシアは、従来の協約を改訂・強化して新たな東アジアの勢力均衡を画定する必要性に迫られた。
内蒙古分割と東経116度27分線
1912年7月8日、聖ペテルブルクにおいて、日本の本野一郎駐露公使とロシアのサゾーノフ外相との間で第3次日露協約が調印された。この協約の最大の特徴は、日露の勢力圏画定の対象を、これまでの満洲から内蒙古(内モンゴル)へと拡大した点にある。
協約の秘密条項において、両国は北京を通る東経116度27分線を境界として設定した。この境界線より東側の「東部内蒙古」を日本の勢力範囲とし、西側の「西部内蒙古」をロシアの勢力範囲として相互に認め合った。これにより、日本は南満洲に加えて東部内蒙古へも地政学的・経済的な支配権(特殊権益)を及ぼす法的根拠(日露間における)を獲得することとなった。
帝国主義的妥協の完成とその後の歴史的展開
第3次日露協約の締結により、日露両国による中国東北部から内蒙古に及ぶ巨大な防壁(勢力圏)が完成した。これは、中国の主権や「門戸開放・機会均等」を唱えるアメリカなどの反発を無視した、典型的な帝国主義的妥協であった。日本にとっては、後に叫ばれることとなる「満蒙(満洲・蒙古)一体化」の国策を推進するための重要な一歩となった。
この日露の協調体制は、1914年に勃発した第一次世界大戦下においてさらに強化され、1916年には軍事同盟の色彩を帯びた第4次日露協約へと発展する。しかし、1917年にロシア革命が起こり、ロマノフ朝の帝国が崩壊してソビエト政権が誕生したことで、一連の日露協約体制はすべて破棄され、両国関係は新たな対立の時代へと突入することになる。