白糸
【概説】
江戸時代初期における最大の輸入品であった中国産生糸のこと。主にポルトガル商人がマカオを経由して長崎へ独占的に持ち込み、彼らに莫大な富をもたらした。
南蛮貿易における最大の輸入品
戦国時代末期から江戸時代初期にかけての日本では、武士や富裕な町人の間で高級絹織物の需要が急速に高まっていた。しかし、当時の日本の養蚕・製糸技術は未発達であったため、良質な絹織物を生産するには、中国(明)で生産される高品質な生糸、いわゆる「白糸」を大量に輸入する必要があった。一方、当時の明朝は倭寇への警戒などから海禁政策を敷いており、日本との正式な国交や勘合貿易を通じた直接の取引は断絶していた。そのため、日本は喉から手が出るほど欲しい中国産生糸を、直接買い付けることが困難な状況にあった。
ポルトガルの独占と莫大な利益
この日明間の直接貿易の断絶に目をつけたのが、いち早く東アジアの海域世界に進出していたポルトガルであった。彼らは1557年に居住権を獲得した中国のマカオを拠点とし、中国の生糸を買い集めて日本の長崎へ運ぶ中継貿易を展開した。当時の日本は世界有数の銀産出国であり、主要な輸出品は銀であったため、ポルトガル商人は中国の白糸と日本の銀を交換することで、莫大な利ざやを得ていた。この白糸を中心とする生糸貿易は南蛮貿易の根幹をなし、ポルトガルに巨万の富をもたらすとともに、日本国内におけるキリスト教布教活動を支える強力な経済的基盤ともなっていた。
糸割符制度の導入と幕府の統制
ポルトガル商人による白糸の独占的な供給は、足元を見た価格の吊り上げを容易にし、日本国内での生糸価格の不当な高騰を招いていた。これに対処するため、江戸幕府をひらいた徳川家康は1604年(慶長9年)、糸割符制度(いとわっぷせいど)を導入した。これは、京都・堺・長崎(のちに江戸・大坂が加わり五ヶ所商人と呼ばれる)の有力商人に糸割符仲間という特権的な組合を結成させ、春に輸入される白糸の価格を彼らに一括して決定・購入させるという統制策であった。この制度により、幕府はポルトガルから価格決定権を奪って不当な利益を抑え込むとともに、糸割符商人から運上金を徴収することで、貿易に対する管理と統制を一段と強めていった。
国産化への転換と歴史的役割の終焉
その後、幕府によるキリスト教禁教と貿易統制が進み、ポルトガル船の来航が禁止(鎖国の完成)されると、白糸の輸入権はオランダや中国(清)の商人に移った。しかし、江戸時代中期以降、生糸輸入の代価として金銀が大量に海外へ流出することが深刻な経済問題となった。これを防ぐため、幕府は貿易制限を行うとともに、国内での養蚕業や製糸業を強く奨励した。その結果、西陣などの絹織物産業も次第に質の向上した国産の生糸を使用するようになり、輸入への依存度は大きく低下していった。こうして、かつて対外貿易の最大の目玉であった白糸は、国内産業の発展と自給自足経済への移行のなかで、その歴史的役割を終えていったのである。