無政府主義(アナーキズム)
【概説】
国家や法律など一切の権力を否定し、個人の自由意志に基づく相互扶助の社会を目指す思想。日本では明治時代後期に紹介され、大正時代には大杉栄らの主導によって労働運動と結びつき、社会主義運動のなかで大きな勢力を持った。
日本への流入と「冬の時代」
無政府主義(アナーキズム)は、19世紀のヨーロッパでプルードンやバクーニンらによって基礎づけられ、国家や法、宗教といったあらゆる権威的抑圧を否定し、自由な個人の自発的な結びつきによる社会の実現を目指す思想である。日本には明治時代後期に流入し、主に幸徳秋水らによって本格的に紹介された。1905年に渡米した幸徳は、ロシアの思想家クロポトキンの相互扶助論に感銘を受け、議会を通じた合法的な社会改良を否定する直接行動論に傾倒した。帰国後の1906年、幸徳は日本社会党の大会でこの思想を提唱し、合法議会主義を唱える片山潜らと激しく対立した。しかし、1910年の大逆事件によって幸徳ら多くの社会主義者・無政府主義者が死刑に処されたことで、日本の社会主義運動は壊滅的な打撃を受け、いわゆる「冬の時代」に突入した。
大正期における運動の再生とサンディカリズム
大正時代に入り、大正デモクラシーの自由主義的な気風のなかで、無政府主義は再び活気を取り戻す。その中心となったのが大杉栄や荒畑寒村、伊藤野枝らである。彼らは1912年に雑誌『近代思想』を創刊し、権力に対する個人の自由と自我の解放を説き、青年層や労働者に強い影響を与えた。大杉はフランスの労働組合至上主義であるアナルコ・サンディカリズムを取り入れ、労働組合を革命の主体と位置づけた。政党や議会を通じた政治闘争を否定し、労働者のゼネラル・ストライキ(総同盟罷業)といった直接行動による社会革命を主張したことは、勃興しつつあった日本の労働運動において確固たる支持基盤を築くこととなった。
「アナ・ボル論争」と無政府主義の衰退
大正中期以降、日本の社会主義・労働運動は新たな転換期を迎える。1917年のロシア革命の成功により、マルクス・レーニン主義(ボルシェヴィズム)が日本にも波及したのである。これにより、社会主義運動の内部で、大杉ら無政府主義者(アナキスト)と、山川均や堺利彦らマルクス主義者(ボルシェヴィキ)との間で激しい主導権争いが生じた。これがアナ・ボル論争である。当初は労働組合への影響力を強めていたアナ派が優勢であったが、中央集権的な前衛党の組織と政治闘争を重視するボル派が次第に理論的優位を確立し、1922年の日本共産党結成によってボル派が運動の主流を占めるようになった。
甘粕事件と歴史的意義
無政府主義の退潮が決定的となったのは、1923年に発生した関東大震災である。震災の混乱のなか、大杉栄と伊藤野枝、そして大杉の甥が憲兵大尉の甘粕正彦らによって虐殺される甘粕事件が起きた。最もカリスマ的な指導者を失った日本の無政府主義運動は、求心力を失って急速に勢力を縮小させていった。その後も農村青年や一部の労働者の間で農本主義的なアナーキズムなどが細々と命脈を保ったが、昭和期の治安維持法体制下における徹底的な弾圧により、組織的な運動としては消滅を余儀なくされた。しかし、国家権力に対する根源的な批判や、個人の徹底した自由への希求、そして底辺の民衆の連帯を目指した無政府主義の思想は、近代日本の思想史・運動史において独特の光を放ち、後世の文化や社会運動にも少なからぬ影響を与え続けている。