山川均

堺利彦らとともに日本社会主義同盟を結成し、のちに大衆運動への方向転換を主張して社会主義運動を指導した人物は誰か?
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重要度
★★

【参考リンク】
山川均(Wikipedia)

山川均 (やまかわひとし)

1880年〜1958年

【概説】
明治から昭和中期にかけて活躍した日本の社会主義運動家、理論家。堺利彦らとともに日本社会主義同盟や第一次日本共産党の結成に参画し、大衆運動を重視する「方向転換」を唱えて大正期の社会運動に決定的な影響を与えた指導者。

「冬の時代」から大正デモクラシーへ

山川均は岡山県に生まれ、明治後期から幸徳秋水らの平民社に参加して社会主義運動に身を投じた。1908年の赤旗事件で下獄したため、幸徳らが処刑された1910年の大逆事件の難を逃れることとなった。大逆事件後の社会主義運動が徹底的に弾圧された「冬の時代」においても、山川は堺利彦らとともに売文社を設立して運動の火を灯し続けた。大正デモクラシーの進展や1917年のロシア革命の成功を背景に、山川らは再び表舞台に立ち、1920年には社会主義諸潮流を結集した日本社会主義同盟の結成に尽力した。

「方向転換」論の提唱と「山川イズム」

1922年、山川は前衛誌『前衛』に論文「無産階級運動の方向転換」を発表した。それまでの日本の社会主義運動は、政府の厳しい弾圧への反発から、過激な直接行動を辞さない少数精鋭の無政府主義(アナキズム)的傾向が強かった。これに対し山川は、知識人による孤立した運動から脱却し、「民衆の中へ」入って労働者や農民の日常的な要求に根ざした大衆的・組織的な運動を展開すべきであると主張した。この「方向転換」論は当時の運動方針に劇的なパラダイムシフトをもたらし、その理論は「山川イズム」と呼ばれて労働運動や農民運動の急速な活性化を促す契機となった。

日本共産党結成と「労農派」への道

1922年7月、山川は堺利彦やコミンテルン(国際共産党)の使者らとともに、非合法の第一次日本共産党を創立し、中心メンバーとして党綱領の起草などにあたった。しかし、日本の厳しい弾圧状況を鑑みて一度は党の解散を唱え、コミンテルンの一国一党方針と対立した。その後、1927年に雑誌『労農』を創刊し、コミンテルンの指示に盲従する共産党(講座派)とは一線を画す「労農派」を形成した。両派は日本資本主義の発展段階をめぐり激しい論争(日本資本主義論争)を繰り広げたが、1937年には人民戦線の結成を試みたとして、軍部・警察による治安維持法適用の弾圧(人民戦線事件)により検挙され、運動の一線を退くこととなった。戦後は日本社会党の結成に関わり、同党左派の理論的指導者として影響力を持ち続けた。

日本人の自伝〈9〉堺利彦.山川均 (1982年)

明治期の社会主義運動を先導した先覚者たちの闘争と苦悩、その足跡を克明に刻んだ魂の証言録。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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