押領使 (おうりょうし)
【概説】
平安時代中期以降、地方の反乱や群盗を鎮圧するために設置された令外官の軍事指揮官。開発領主や有力な在庁官人など、現地の武力を持つ者が国ごと、あるいは特定の地域ごとに臨時に任命された。のちの武士団の形成や、鎌倉時代の守護制度へとつながる地方軍政の先駆的な官職である。
律令軍制の崩壊と「押領使」の誕生
9世紀に入ると、律令制に基づく軍団制が急速に形骸化し、国家による治安維持能力が著しく低下した。これと並行して、地方では「富豪の輩」と呼ばれる有力農民らが台頭し、彼らによる国衙への抵抗や、群盗化しての略奪が深刻な社会問題となった。
国衙(国役所)は、従来の律令的な軍事力ではこれらの暴動を鎮圧できなくなったため、現地で実質的な武力を持つ者を「押領使」や「追捕使」として急遽任命し、追捕にあたらせた。これが押領使の始まりである。当初は乱の発生時に臨時に置かれる臨時職であったが、地方の無秩序状態が慢性化するにつれて次第に常設化され、各国の治安維持を担う中心的な機関となっていった。
武士の台頭と藤原秀郷の活躍
押領使に任命されたのは、国司の資格を持つ者や、現地で勢力を伸ばしていた開発領主、在庁官人などであった。彼らは公的な権限を得ることで、自身の私兵集団を率いて堂々と軍事行動を起こすことが可能となった。すなわち、押領使への任命は在地領主にとって、自らの武力を公認(公権力化)させ、勢力を拡大する格好の手段となったのである。このように、押領使の職制は武士が社会的に認知され、組織化していく契機となった。
その代表例が、承平・天慶の乱(939年〜940年)において平将門の乱の平定に活躍した下野押領使・藤原秀郷である。秀郷は押領使としての軍主的・公的な動員力を背景に将門を討ち取り、その恩賞によってさらに勢力を拡大、その後の武士の源流となる「秀郷流藤原氏」の基礎を築いた。
追捕使との関係と「守護」への系譜
押領使と類似した軍職に「追捕使」がある。両者の明確な区分については諸説あるが、一般に追捕使が特定の凶悪犯や反乱首謀者の追跡・逮捕(特定の任務)を目的に、国境を越えて広域に派遣される傾向があったのに対し、押領使は国内の治安維持や平時からの軍事活動の統制など、より地域密着型の性格が強かったとされる。
これらの軍職は、平安後期を通じて国衙の軍事機能を代替するものとして定着していった。この「国内の武力動員権を掌握し、治安維持にあたる」という押領使や追捕使の権限と機能は、のちに源頼朝が全国に設置することになる鎌倉幕府の守護へと受け継がれ、中世武家社会の根幹をなす地方統治制度へと発展していくこととなる。