湿田 (弥生時代前期〜中期)
【概説】
弥生時代前期から中期にかけての日本で広く見られた、排水が困難で常に水に浸かった状態にある低湿地の水田。特別な灌漑・排水施設を造る技術が未発達であった初期の稲作において、自然の水分供給を利用して営まれた生産形態である。
初期稲作を支えた自然環境の利用
大陸から日本列島に伝わった稲作技術は、まず九州北部をはじめとする各地の河川下流域や谷地などの低湿地で展開された。これが湿田である。湿田の最大の利点は、地下水位が極めて高く、降雨や自然の湧水に依存できるため、大規模な水路や堰(せき)といった人工的な灌漑施設を必要としない点にあった。技術的に未熟であった弥生時代前期の人々にとって、自然の地形をそのまま利用できる湿田は、農耕を開始する上で最も好都合な環境であった。福岡県の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡などの初期水田遺跡からも、こうした湿田の跡が確認されている。
過酷な労働実態と生産性の限界
しかし、湿田での稲作は多くの困難と限界を抱えていた。常に水が溜まった泥深い環境(泥田)であったため、農作業は非常に重労働であった。作業者は足が深く沈み込むのを防ぐため、板状の木製道具である田下駄(大足など)を装着して田に入らざるを得なかった。また、当時の主要な農具は木製農具であり、湿田の硬い下層土を深く耕起することができなかったことも、労働効率の低さに拍車をかけた。さらに、水が引かないために土壌中の酸素が不足しやすく、地温も上がりにくいため、稲の生育は不安定で、単位面積あたりの収穫量(生産性)はきわめて低い状態にとどまった。
技術革新と「乾田」への移行
弥生時代中期後半から後期にかけて、鉄器の流入と普及に伴い、農業技術は劇的な転換期を迎える。鉄製刃先を装着した強固な鍬(くわ)や鋤(すき)が登場し、木製矢板を用いた護岸水路や堰などの高度な土木・灌漑技術が発達した。これにより、人為的に給水と排水をコントロールできる乾田(かんでん)の造成が可能となった。冬場に水を抜いて土を乾燥させることができる乾田は、地温の上昇や土壌の栄養状態の改善をもたらし、生産力を飛躍的に向上させた。湿田から乾田への移行は、単なる農業技術の進歩にとどまらず、余剰生産物の蓄積とそれによる社会の貧富の差、ひいては階級社会や「クニ」の形成へとつながる、日本歴史上の大きな契機となった。