外国官 (がいこくかん)
1868年〜1869年
【概説】
明治初期の「政体書」に基づく太政官七官制において、外交交渉や対外交際全般を管轄した中央官庁。幕末以来の懸案であった条約改正への足がかりを築き、のちの外務省の母体となった機関である。
政体書の発布と外国官の創設
慶応4年(1868年)閏4月、明治新政府はアメリカ合衆国憲法を参考に権力分立の原則を取り入れた政体書を発布し、中央官制として太政官七官制を整備した。この七官(議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法)の一つとして設置されたのが外国官である。
新政府発足当初の外交部門は、1868年1月に設置された「外国事務総督」、次いで同年2月の「外国事務局」が担っていた。しかし、急激に変化する国内情勢と複雑化する対外関係に対応するため、より体系的な官制の整備が求められ、外国事務局を改組する形で外国官が誕生した。
多難な初期外交と外務省への改組
外国官の長官である外国官知事には、宇和島藩主であった伊達宗城が就任し、そのもとで大隈重信や寺島宗則、五代友厚らが外国官判事として実務を担った。当時の新政府は、神戸事件や堺事件といった外国人殺傷事件の処理、さらにはキリスト教徒への弾圧である浦上四番崩れに対する列国からの抗議への対応など、極めて多難な外交課題に直面していた。外国官は、これら個別の紛争処理にあたるとともに、幕府が結んだ不平等条約の改正に向けた準備を進める役割も担った。
その後、明治2年(1869年)7月の版籍奉還に伴う官制改革(二官六省制の導入)により、外国官は廃止され、新たに設置された外務省へとその機能が引き継がれた。外国官としての存続期間は1年余りと短かったが、旧幕臣の登用や近代外交実務の蓄積など、日本の外交機構が近代化する過程における重要な過渡期の機関であった。