武家諸法度(天和令) (ぶけしょはっと てんなれい)
【概説】
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の代である1683年(天和3年)に発布された、大名統制のための基本法。
第一条の文言をそれまでの「文武弓馬」から「文武忠孝」へと改定し、武力による武断政治から儒学や礼節を重んじる文治政治への転換を明確に示した法典である。
「文武忠孝」への改定と文治政治の確立
武家諸法度は、2代将軍徳川秀忠の時代(慶長令)に初めて制定されて以来、将軍の代替わりごとに改定・発布されるのが慣例となっていた。5代将軍徳川綱吉の時代に発布された「天和令」の最大の特徴は、その第一条の文言変更にある。
それまでの寛文令(4代家綱期)までは、第一条に「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」とあり、武士の本分を軍事技術(弓馬の道)に求めていた。しかし天和令では、これが「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」へと改められた。これは、戦国時代の余風を払拭し、儒教的な「忠」や「孝」、さらには社会秩序を維持するための「礼儀」を重んじる文治政治への方針転換を、法的に宣言したものである。綱吉自身が学問(特に朱子学)を深く好んだことも、この改定に強く影響している。
殉死禁止の明文化と末期養子制限の緩和
天和令のもう一つの重要な側面は、社会の安定化に向けた実務的な改正が行われた点である。その筆頭が殉死の禁止の明文化である。主君の死に際して臣下が後を追って自殺する殉死は、戦国期からの古い主従の絆を示す風習であったが、すでに4代家綱の時代(寛文の治)に口頭で禁じられていた。天和令ではこれが初めて成文化され、武家社会における前近代的な主従関係への完全な決別が図られた。
また、末期養子(まつごようし)の制限緩和も盛り込まれた。それまでは大名が跡継ぎを決めずに急死(または臨終間際)した場合、家名断絶(改易)となる厳しい規定があったため、多くの浪人が発生し、それが「慶安の変」などの治安悪化につながっていた。天和令では、50歳未満の大名であれば、臨終間際の養子縁組であってもこれを認めることとし、大名家存続の道を開いた。これにより武家社会の雇用不安が和らぎ、さらなる秩序安定がもたらされた。
支配階級としての武士の「官僚化」
天和令による一連の改正は、武士という存在の変容を裏付けるものでもあった。かつての「戦う集団」としての武士は、幕藩体制の確立・安定にともない、「領民を治める官僚集団」への変化を迫られていた。天和令は、武士に対して単なる武芸の鍛錬だけでなく、政治を司る者としての教養や道徳(忠孝・礼儀)を身につけることを明確に要請したのである。
このように武家諸法度(天和令)は、武力を背景とした支配から、儒教的道徳と法秩序による統治へと日本の社会構造を大きくシフトさせた、画期的な転換点として位置づけられる。