横穴式石室

重要度
★★★

横穴式石室 (よこあなしきせきしつ)

5世紀後半〜7世紀頃

【概説】
側面に通路(羨道)を持ち、遺体を安置する部屋(玄室)に外部から出入り可能な古墳時代後期の埋葬施設。前期から中期にかけて主流だった密閉型の竪穴式石室に代わって普及し、追葬(追加埋葬)を可能にした。群集墳の造営や社会階層の底辺への古墳築造の拡大と深く結びついており、古墳時代後期の社会構造の変化を知る上で極めて重要である。

横穴式石室の構造と特徴

横穴式石室は、主に遺体を安置する空間である玄室(げんしつ)と、外部から玄室へと通じる通路である羨道(せんどう)という二つの部分から構成される。玄室は石を積み上げて壁面を作り、その上に巨大な天井石を架け渡して空間を確保する構造となっている。

羨道の入り口(羨門)は普段は閉塞石(へいそくせき)と呼ばれる石や扉で塞がれているが、これを取り除くことによって、墳丘の土を大きく掘り返すことなく、外部から何度でも玄室に出入りすることが可能であった。なお、「横穴」という名称が付いているが、山の斜面などに直接穴を掘り込む「横穴墓(よこあなぼ)」とは異なり、横穴式石室はあくまで墳丘(土盛り)の中に石積みの空間を設けたものである。

竪穴式石室からの転換と朝鮮半島の影響

古墳時代前期から中期(3世紀〜5世紀)にかけての主要な埋葬施設は竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)であった。これは墳丘の上部から穴を掘り、棺を納めた後に石と土で完全に密閉してしまう構造であり、原則として一人の有力な死者(首長)を葬るための施設であった。

しかし、5世紀後半ごろに九州北部の玄界灘沿岸地域において、朝鮮半島(特に百済や高句麗)の墓制の影響を受けて横穴式石室が導入され始めた。その後、渡来人の技術的影響やヤマト王権の地方支配の進展に伴って徐々に東進し、6世紀から7世紀にかけて全国的に爆発的な普及を見せることとなる。

追葬の実現と「家族墓」としての性格

横穴式石室がもたらした最大の歴史的意義は、追葬(ついそう:追加の埋葬)が可能になった点である。竪穴式石室が単独葬であったのに対し、横穴式石室では入り口を開くだけで、後から亡くなった親族を同じ玄室内に次々と葬ることができた。

これにより、古墳は一代限りの個人的な権力のモニュメントから、特定の血縁集団(氏族や家族)が代々共有して使用する「家族墓」や「親族墓」としての性格へと大きく変容した。これは、社会の基盤となる単位が個人の大首長から、父系制を軸とした有力家族へと移行していった同時代の社会状況を強く反映している。

群集墳の造営と社会階層の変化

6世紀以降の横穴式石室の普及は、小規模な円墳や方墳が山の斜面などに密集して造営される群集墳(ぐんしゅうふん)の急増と軌を一にしている。これは、鉄製農具の普及や農業生産力の向上により、旧来の一部の大首長だけでなく、農民層の有力者(村落の長や有力な家族)までもが自らの古墳を築造できるようになったことを示している。

巨大な前方後円墳を頂点とする厳格な身分秩序が変容し、より広範な階層に富と権力が分散していった古墳時代後期の社会構造の質的変化を、横穴式石室の普及は如実に物語っているのである。その後、7世紀に入ると仏教の火葬の普及や薄葬令(大化の改新)の影響により、古墳造営自体が終焉に向かっていくこととなる。

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