松江城

高校日本史的重要度
★★

松江城

1611年完成

【概説】
出雲国(現在の島根県松江市)に築かれた、江戸時代初期を代表する平山城。関ヶ原の戦い後に領主となった堀尾吉晴によって築城され、山陰地方で唯一、築城当時の天守が現存する国宝の名城である。

堀尾氏による出雲支配と新城の建設

関ヶ原の戦いの戦功により、遠江国浜松から出雲・隠岐24万石に加増移封された堀尾吉晴(実際の藩主は子の忠氏)は、当初は戦国大名尼子氏の本拠であった月山富体城(広瀬城)に入った。しかし、月山富田城は峻険な山城であり、近世大名としての領国支配、城下町の展開、および水上交通の利便性の面で不向きであった。そこで吉晴は、宍道湖と中海を繋ぐ大橋川の北側に位置する亀田山を築城地に選定し、慶長12(1607)年から築城を開始した。慶長16(1611)年に城は完成し、これに伴い政治・経済の拠点が松江へと移った。堀尾氏は3代で断絶したが、その後は京極氏を経て、徳川家康の孫にあたる松平直政が入封し、以後は結城松平家が幕末まで松江藩を統治した。

実戦的な構造と国宝再指定への歩み

松江城の天守は、桃山時代の城郭建築の様式を色濃く残す、極めて実戦的な構造が特徴である。外観は4重5階(地下1階)の望楼型天守で、壁面は黒塗りの雨覆板(下見板)で覆われ、引き締まった印象を与える。内部には敵を迎撃するための「石落とし」や「狭間」が多数備えられているほか、籠城戦を想定して地階に井戸が掘られている。また、建築技術の面では、太い柱を確保するのが困難な時代背景を反映し、複数の木材を接合して鉄帯やボルトで固定した「包板(つつみいた)」と呼ばれる技法が多用されている。昭和10(1935)年に国宝保存法に基づき国宝に指定されたものの、戦後の法改正で一時は重要文化財となったが、2012年に築城時期を特定する「慶長拾六年」の祈祷札が発見されたことが決定手となり、2015(平成27)年に再び国宝に指定された。現存十二天守の一つとして、歴史的・文化的に極めて高い価値を有している。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:04

日本史一問一答(ランダム)

Q. 永享の乱の2年後(1440年)、下総の結城氏らが足利持氏の遺児を担いで幕府に対して起こした反乱を何というか?
Q. 江戸時代後期、畿内を中心に数か国・数百か村の農民が団結し、特権商人の流通独占の打破などを求めて幕府に合法的に訴え出た運動は何か?
Q. 昭和初期の財閥に見られる、持株会社(本社)を頂点として金融から重工業、商業まで多種多様な企業を支配下におく独占形態を何というか?