出雲 (いずも)
【概説】
現在の島根県東部にあたる地域。弥生時代から古墳時代にかけて、ヤマト王権(大和朝廷)とは異なる独自の精緻な青銅器文化や墓制を展開した古代日本の有力な政治文化圏。
独自の青銅器文化と「四隅突出型墳丘墓」の展開
出雲地方は、弥生時代の中期から後期にかけて、日本海側における巨大な文化圏の中心地であった。その象徴となるのが、島根県出雲市の荒神谷遺跡(銅剣358本などが出土)や雲南市の加茂岩倉遺跡(銅鐸39口が出土)に代表される、大量の青銅器祭祀である。これほどの規模の青銅器の一括出土は近畿や九州を凌駕するものであり、独自の強大な勢力がこの地に存在したことを明確に示している。
さらに、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて、出雲を核とした日本海沿岸地域では四隅突出型墳丘墓と呼ばれる独特の墓制が発達した。これは方形の墳丘の四隅がヒトデのように長く伸びた形状を持つ大型の墳墓であり、吉備(現在の岡山県)や北陸地方とも結びつきながら、ヤマト王権が推進した前方後円墳のネットワークとは一線を画す、独自の首長同盟が存在した証拠と位置づけられている。
出雲神話が物語るヤマト王権との政治的交渉
『古事記』や『日本書紀』において、出雲は記紀神話全体の約3分の1を占める重要な舞台として描かれている。とりわけ、出雲の支配者である大国主神(おおくにぬしのかみ)が、天照大御神の使者に統治権を譲り渡す「国譲り」の神話は極めて著名である。これは単なる創作ではなく、出雲地方に割拠していた強力な首長勢力が、最終的にヤマト王権へと統合されていく歴史的妥協のプロセスを投影したものと考えられている。
国譲りの代償として造営されたとされる出雲大社(築大社)は、古代において現在のビルに匹敵する高さ(48メートルに達したとする説がある)を誇る巨大な木造神殿であった。ヤマト王権がこれほど壮大な神殿の建立を認め、出雲の神(大国主神)を祀り続けたことは、王権にとっても出雲の宗教的・軍事的影響力を無視できず、精神的な懐柔を図る必要があったことを物語っている。
日本海交易の要衝と「国引き神話」
出雲がこれほどの勢力たり得た背景には、その地理的優位性がある。日本海に面した出雲は、対馬海流を利用した海上交通網を通じて、朝鮮半島(新羅など)や北陸、さらには東北地方と結ぶ交易の要衝であった。また、中国山地から産出する良質な砂鉄を用いた「たたら製鉄」など、初期の金属器生産における先進技術を有していたことも、その経済的基盤を支えていた。
奈良時代に編纂された『出雲国風土記』に記された「国引き神話」(八束水臣津野命が朝鮮半島や北陸から土地を引っ張ってきて出雲を広げたという説話)は、出雲が対外交易を通じて日本海周辺の諸地域と極めて緊密な関係にあったことを、スケールの大きな神話の形で今に伝えている。このように古代の出雲は、ヤマトという中央集権の視点だけでは捉えきれない、多角的な日本列島の形成史を考える上で欠かせない地域である。