松永久秀 (まつながひさひで)
【概説】
戦国時代から安土桃山時代にかけて、畿内を中心に活躍した戦国大名。阿波出身の戦国大名・三好長慶の家臣から台頭し、主家を凌ぐ実力をつけて京都や大和国(現在の奈良県)を支配した、下剋上の体現者として名高い人物。
三好政権での台頭と将軍足利義輝の暗殺
松永久秀の出自には諸説あるが、阿波国の国人から台頭した三好長慶の右筆(書記官)として仕え始めたとされる。久秀は優れた実務能力と軍事才覚を発揮して信頼を獲得し、長慶が京都を中心とする畿内政権(三好政権)を確立すると、その執事として幕政や京都の支配に深く関与するようになった。
しかし、長慶の死後、実権を握った久秀は三好三人衆(三好長逸ら)と協調、あるいは対立しながら、畿内での独自の地歩を固めていく。1565年には、久秀の長男・久通や三好三人衆らが、室町幕府の権威復興を目指して自立的な動きを強めていた13代将軍足利義輝を二条御所で襲撃し、殺害した(永禄の変)。この事件に久秀自身は直接参加していなかったとされるが、当時の首謀者の一人とみなされ、室町幕府の衰退を決定づけることとなった。
織田信長への臣従と「平蜘蛛釜」を巡る最期
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、久秀はいち早く信長に臣従した。この際、自身の所有する名茶器「九十九髪茄子(つくもなす)」を信長に献上してその歓心買い、大和国の支配権を安堵された。信長の下で大和の平定を進め、信長の同盟者として姉川の戦いなどにも従軍した。
しかし、信長と将軍・足利義昭の対立が激化し、武田信玄や朝倉義景らによる信長包囲網が形成されると、久秀は信長に反旗を翻した。一度目の謀叛は武田信玄の急死などにより包囲網が瓦解したことで失敗に終わり、信長に降伏して許されたが、1577年には上杉謙信や本願寺の動きに呼応して再び背いた。信長は信貴山城(奈良県)を包囲し、久秀が所有する天下の名釜「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」を差し出せば助命すると条件を提示したが、久秀はこれを拒絶。平蜘蛛釜に火薬を詰めて爆死した(または粉砕した)とも伝えられる劇的な最期を遂げ、信貴山城は陥落した。
文化人としての側面と「悪人像」の再評価
江戸時代以降、久秀は「主家を奪い、将軍を殺し、東大寺大仏殿を焼き払った」という「戦国三悪事」を行った稀代の奸物(悪人)として語られることが多かった。しかし、近年の歴史研究では、東大寺の焼失は三好三人衆との交戦中の失火である可能性が高く、将軍暗殺も嫡男の久通が主導したものであるなど、久秀単独の罪とは言えないことが明らかになりつつある。
また、久秀は茶の湯において武野紹鴎に師事し、千利休とも交流のあった一流の文化人でもあった。さらに、彼が築いた多聞山城は、白壁の長屋状の建物である「多聞櫓(たもんやぐら)」の起源とされ、近世城郭の先駆けとなった。このように、久秀は単なる残虐な戦国武将ではなく、高度な教養と先進的な土木・軍事技術を持った、時代の変革者としての側面が強く再評価されている。