中国地方(戦国時代)
【概説】
本州西端に位置する山陽道・山陰道からなる地域。戦国時代前期から中期にかけては大内氏と尼子氏が熾烈な覇権争いを展開したが、のちに安芸の国人領主から台頭した毛利氏が両氏を討ち破って一帯を平定した。
西国の覇者・大内氏と山陰の雄・尼子氏
室町時代後期から戦国時代にかけて、中国地方の情勢は大きく二つの巨大勢力によって牽引されていた。一つは周防・長門を本拠とする大内氏である。大内氏は博多を掌握して日明貿易(勘合貿易)による莫大な利益を独占し、その経済力を背景に「西の京」と呼ばれる山口の文化を繁栄させた。戦国大名としての全盛期を築いた大内義興の代には、前将軍である足利義稙を奉じて上洛し、畿内の政局を左右するほどの多大な影響力を誇った。
もう一方の勢力が、出雲の守護代から下克上を果たして戦国大名化した尼子氏である。尼子経久は難攻不落の月山富田城を拠点として山陰地方を席巻し、さらに南下して山陽地方へと進出を図った。これにより、中国地方の国人領主たちは、西から東進する大内氏と、北から南下する尼子氏という二大勢力の間で従属と離反を繰り返す、激動の時代を迎えることとなった。
毛利元就の飛躍と中国地方の統一
大内氏と尼子氏の二大勢力による抗争の狭間で翻弄されていた安芸の小規模な国人領主から、やがて中国地方の覇権を握るまでに成長したのが毛利元就である。元就は巧みな外交戦略や国人一揆の盟主としての地位を活かして勢力を拡大し、安芸国内での基盤を固めていった。
1551年、大内義隆が重臣の陶晴賢の謀反によって自刃に追い込まれる「大寧寺の変」が起こると、元就はこれを機に大内氏からの独立を画策した。1555年、元就は厳島の戦いにおいて陶晴賢の率いる大軍を奇襲によって打ち破り、大内氏の旧領であった周防・長門などを併呑する。さらに元就は矛先を山陰へと向け、1566年には月山富田城の戦いで尼子義久を降伏させて尼子氏を滅亡させた。こうして毛利氏は山陰・山陽の両道を支配する西国随一の戦国大名としての地位を確立し、中国地方一帯は毛利氏の下に統一されたのである。
織田政権との激突と豊臣政権下への移行
毛利氏による中国地方統一の完成も束の間、畿内を中心に天下布武を推し進める織田信長の勢力が中国地方へ波及してきた。京都から追放された室町幕府15代将軍・足利義昭を毛利輝元が備後の鞆の浦で庇護したことを決定的な契機として、毛利氏と織田氏は全面対決へと突入する。
織田方の中国方面軍司令官に任命された羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による「中国攻め」は苛烈を極めた。鳥取城の兵糧攻めや備中高松城の水攻めなど、大規模な包囲戦によって毛利氏は次第に防戦一方へと追い詰められていった。しかし1582年、本能寺の変によって信長が横死したことで事態は急転する。秀吉の停戦要求に応じて講和を結んだ毛利氏は、領土の一部を割譲することで生き残りを図り、以降は天下統一を進める豊臣政権下において有力な大名として存続する道を選んだ。毛利輝元は豊臣政権内で五大老の一人として重用され、戦乱の舞台であった中国地方は、近世社会を支える重要な基盤地域へと移行していったのである。