東海道五十三次 (とうかいどうごじゅうさんつぎ)
【概説】
江戸時代後期の浮世絵師・歌川広重による風景画(名所絵)の連作。江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道の53の宿場町に、起終点を加えた全55図で構成される。四季折々の自然や旅人の様子を叙情豊かに描き出し、当時の庶民の間に空前の旅ブームを巻き起こした。
名所絵の確立と歌川広重
江戸時代後期、浮世絵の主流は長らく美人画や役者絵であったが、天保年間(1830年代)に入ると風景そのものを主題とする名所絵(風景画)が一つのジャンルとして確立された。その先駆けとなったのが、葛飾北斎による『富嶽三十六景』である。元々は幕府の定火消同心であった歌川広重は、北斎の成功に強く刺激を受け、風景画の分野へと本格的に進出することとなった。
北斎が幾何学的でダイナミックな構図と理知的な視点で自然を描いたのに対し、広重はより人間味にあふれ、雨や雪、霧、風といった自然現象の移ろいを詩情豊かに捉える画風を特徴とした。この対照的な二人の天才の登場により、浮世絵風景画は黄金期を迎えることになる。
旅行ブームと庶民の憧憬
当時の日本は、貨幣経済の浸透や交通網の整備を背景に、庶民の間に空前の旅行ブームが到来していた。十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』の大ヒットや、「お伊勢参り」「金毘羅参り」といった社寺参詣を名目とした遊覧旅行が流行する中、東海道は最も多くの人々が行き交う大動脈であった。
天保3年(1832年)、広重は幕府が朝廷に馬を献上する「八朔の御馬進献」の記録係として東海道を上洛したとされ、その道中でのスケッチをもとに本作を描き上げたと伝えられている(※実際に全行程を踏破したかについては異説もある)。各宿場の名所や名物、険しい峠道、そして大名行列から飛脚、巡礼者、農民に至るまで、街道を行き交う人々の生き生きとした生活描写は、実際に旅をした者には懐かしさを、旅に出られない者には強い憧れを抱かせた。
「保永堂版」の空前の大ヒット
天保4年(1833年)頃から版元である保永堂などを通じて順次刊行された本作は、またたく間に大ベストセラーとなった。江戸を出発点とする「日本橋 朝之景」から始まり、雪降る夜の静寂を描いた「蒲原 夜之雪」や、突然の土砂降りに慌てる人々を描いた「庄野 白雨」などの傑作を経て、終点の「京師 三条大橋」に至る全55図は、広重に風景画家としての不動の地位をもたらした。
この大成功を受け、広重はその後も版元を変えて『東海道五十三次』を何度も描き直し(行書版、隷書版などと呼ばれる)、さらに『木曽海道六十九次』や、晩年の最高傑作とされる『名所江戸百景』など、数多くの名所絵を生み出していくこととなる。
ジャポニスムと世界美術史への影響
『東海道五十三次』の歴史的意義は、日本国内にとどまらない。広重が多用した「ベロ藍(プルシアンブルー)」と呼ばれる鮮やかな輸入顔料を用いた美しいグラデーション(ぼかし技法)や、画面の手前に事物を大きく配して遠近感を強調する斬新な構図は、幕末から明治にかけて陶磁器の包装紙などに混じって海を渡った。
これが19世紀後半のヨーロッパにおいて、ジャポニスム(日本趣味)という一大芸術運動を巻き起こす契機となった。特にクロード・モネやカミーユ・ピサロといった印象派の画家たちや、フィンセント・ファン・ゴッホなどのポスト印象派の巨匠たちは、広重の作品を熱心に収集・模写し、自らの芸術のインスピレーション源とした。広重の『東海道五十三次』は、単なる江戸時代の風俗資料にとどまらず、西洋美術の近代化に多大な影響を与えた世界的な名作として位置づけられている。