写生画 (しゃせいが)
【概説】
対象をありのままに観察し、客観的・写実的に描写する江戸時代中期に興った絵画様式。伝統的な狩野派などの型にはまった作風に対し、実物の写生を極限まで重視した。円山応挙らによって大成され、西洋画の遠近法や中国・清代の写実的技法を取り入れることで、日本絵画の近代化に決定的な影響を与えた。
伝統への反発と「写生」の台頭
江戸時代中期、幕府の御用絵師として画壇を支配していた狩野派や、朝廷に仕えた土佐派などの伝統画派は、過去の模範的な絵図(粉本)を模倣・踏襲することを第一とし、様式の形骸化が進んでいた。これに対し、知識人や新興の町衆の間で、現実の事物に対する合理的・科学的な関心が高まる。同時代に興隆した本草学(植物学や動物学などの博物学)の発展も、対象を正確に観察・記録する「写生」の態度を後押しした。
さらに、長崎を通じて清の画家である沈南蘋(しんなんぴん)が来日し、極彩色で写実的な花鳥画(南蘋派)を伝えたことや、西洋の眼鏡絵などを通じて透視図法(遠近法)や陰影法が流入したことが、日本の画家に新鮮な刺激を与え、新たな写実表現の土壌が形成された。
円山応挙による大成と「円山・四条派」の成立
この写生画を理論と実践の両面から大成したのが、京都を中心に活躍した円山応挙(まるやまおうきょ)である。応挙は、眼鏡絵の制作経験から西洋画法を学び、昆虫や植物、人体にいたるまで徹底した写生を重ねた。彼の革新性は、単にリアルに描くだけでなく、日本美術が伝統的に持つ装飾的な美しさと写実を融合させ、万人にとって平明で美しい「生きた絵画」を創出した点にある。
応挙の興した円山派は、京都の町衆に熱狂的に受け入れられた。さらに、与謝蕪村に学び、のちに応挙の写実性を取り入れた呉春(ごしゅん)によって、文人画(南画)の情緒的な味わいを加味した四条派(しじょうは)が誕生する。両派を合わせた「円山・四条派」は江戸後期の京都画壇の主流となり、その写実主義の系譜は、明治時代以降の近代日本画(竹内栖鳳など)の形成に直接つながる極めて重要な役割を果たした。