方形周溝墓 (弥生時代~古墳時代前期頃)
【概説】
周囲に方形(四角形)の溝(周溝)を巡らせた、弥生時代を代表する低平な墓。近畿地方を中心に発生し、のちに日本列島の広範な地域へと普及した共同墓地および有力者の墓制の一種である。
構造的特徴と共同体墓地としての性格
方形周溝墓の基本的な構造は、一辺が10〜20メートル程度の正方形もしくは長方形の区画を定め、その周囲に幅1〜2メートル程度の浅い溝(周溝)を掘り巡らせるものである。溝を掘った際に出た土砂は、区画の内部に薄く盛り土として積み上げられたと考えられているが、のちの古墳のような巨大な高塚ではなく、低平な墳丘を形成するにとどまる。区画の中央部には土壙(どこう)や木棺(もっかん)が埋められた。一つの区画に複数の埋葬施設が設けられることが多く、当初は家族や親族といった特定の血縁グループ、すなわち共同体(集落)の系譜を示す共同墓としての性格が強かったと考えられている。
発生と全国的な展開
方形周溝墓は、弥生時代前期に近畿地方で出現したとされている。それまでの縄文時代の共同墓地とは異なり、明確に区画された個人・家族単位の墓地を持つことで、定着性の強い農耕社会の成立や、特定の集団の系譜の確立を意識するようになった背景がうかがえる。弥生時代中期に入ると、この墓制は中部地方や関東地方など、急速に東日本へと伝播していった。一方で、北九州地方では甕棺墓(かんかんぼ)や支石墓(しせきぼ)といった異なる墓制が主流であり、地域によって死者に対する観念や社会組織に違いがあったことが示されている。しかし、弥生時代後期から末期にかけては、全国の広い範囲で方形周溝墓が一般的な墓制として定着していくこととなった。
社会の階層化と古墳への発展的展開
稲作農耕の発展に伴い、弥生時代の社会では貧富の差や階層化(身分差)が進んだ。この社会変化は方形周溝墓のあり方にも影響を与え、弥生時代後期になると、集落の有力な首長を個人で埋葬するような、突出して巨大な「墳丘墓(ふんきゅうぼ)」が現れるようになる。周溝墓の一部に陸橋(通路)を設けたり、四隅が突出した四隅突出型墳丘墓(山陰地方など)のような地域特有の発展形も生まれた。こうした方形周溝墓の大型化や形態の変化、そして特定の首長への祭祀の集中は、のちの古墳時代における前方後円墳をはじめとする巨大古墳の誕生へとつながる重要なステップとなったのである。