新補率法

新補地頭を置くにあたり、現地の荘園領主とのトラブルを防ぐため、1221年に幕府が定めた地頭の収入基準の法を何というか?
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★★★

【参考リンク】
地頭(Wikipedia)

新補率法 (しんぽりっぽう)

1223年

【概説】
承久の乱後に新たに任命された新補地頭の収入を保障するため、鎌倉幕府が定めた地頭得分の統一基準。給田の割合や加徴米の徴収権、山野河海の収益配分などを明確に規定し、武士の経済的基盤の確立と西国への支配拡大に大きく寄与した。

承久の乱と新補地頭の誕生

1221年(承久3年)の承久の乱において勝利を収めた鎌倉幕府は、後鳥羽上皇方に与した公家や西国武士からおよそ3000箇所以上ともいわれる膨大な所領を没収した。幕府は、乱で戦功を挙げた東国武士たちをこれらの没収地に新たな地頭として大挙して任命した。これを新補地頭(しんぽじとう)と呼ぶ。これに対し、源頼朝が1185年(文治元年)の守護・地頭設置の際に任命し、それ以降従来から存在していた地頭は「本補地頭(ほんぽじとう)」と呼ばれるようになった。

荘園領主との対立と基準の必要性

新補地頭の多くはこれまで縁のなかった西国の荘園や公領へ赴任したが、彼らが得るべき得分(収入)については明確な統一基準が存在しなかった。本補地頭の得分は、赴任先の荘園が持つ旧来の慣習や本所法(荘園領主の定めた法)に従うことが原則とされていたため、地域差が大きく不安定であった。新天地で警察権や徴税権を行使する新補地頭にとって、生活・職務の基盤となる得分の確保は死活問題であり、現地の荘園領主(本家や領家)との間で激しい紛争が絶えなかった。幕府としても、西国支配を安定させるためには地頭の権利を保護し、無用な紛争を回避するための明確な基準を設ける必要に迫られた。

新補率法の具体的な内容

こうした背景から、鎌倉幕府は貞応2年(1223年)、新補地頭の得分に関する規定を定めた。これが新補率法である。その中核となる内容は、主に以下の3点から構成されている。

第一に、田畑11町につき1町を無税の地頭給田(免田)として地頭の直接の収入源とすること。第二に、すべての田畑1段につき5升の加徴米(かちょうまい/兵粮米)を徴収する権利を認めること。第三に、山林や河川・海から得られる山野河海の収益については、荘園領主と地頭とで折半(半分ずつ)することである。これらに加え、犯罪者を処罰した際(検断沙汰)に没収した財産の3分の1を地頭の得分とする規定なども設けられ、地頭の経済的・法的な権限が強力に裏付けられた。

歴史的意義と荘園支配への影響

新補率法の制定は、地頭の得分をはじめて全国的な統一基準として明文化した点で、日本中世史において極めて重要な意義を持つ。この法制化により、新補地頭は強固な生活基盤と法的根拠を獲得し、幕府の西国支配は飛躍的に浸透・安定した。さらに、この新基準は本補地頭の得分にも影響を与え、地頭全体の権限を底上げすることにつながった。

明確な経済的裏付けを得た地頭たちは、荘園内での実力をさらに蓄え、やがて荘園領主に対して年貢納入を請け負う代わりに荘園の管理を任される地頭請(じとううけ)や、土地そのものを領主と地頭とで分割する下地中分(したじちゅうぶん)などを強要するようになっていった。すなわち、新補率法は武士による荘園侵略の足がかりとなり、古代から続く荘園公領制を解体へと導く歴史的契機となったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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