免田(給田) (めんでん・きゅうでん)
【概説】
鎌倉時代の1223年(貞応2年)に制定された「新補率法」に基づき、地頭の経済的収入(得分)として設定された免税の田地。田地11町につき1町の割合で地頭に与えられ、荘園領主への年貢納入を免除された。承久の乱後の新補地頭の権利を保障し、武士の荘園支配を強める法的な足がかりとなった制度である。
承久の乱と「新補率法」の制定
1221年(承久3年)に勃発した承久の乱は、鎌倉幕府が後鳥羽上皇を中心とする朝廷勢力を破り、武家政権の優位を決定づけた日本史上の大転換点であった。乱の後、幕府は朝廷側に味方した公家や武士の領地約3000箇所を没収し、その跡地に乱で功績のあった東国御家人を新たに地頭として大量に配置した。これを新補地頭(しんぽじとう)と呼ぶ。
しかし、新補地頭が配置された西日本の荘園や公領の多くは、幕府の影響力が弱かった地域であり、在地での歴史的背景(開発領主としての系譜など)を持たない東国の御家人たちと、現地の荘園領主(本家・領家)との間で激しい対立が生じた。そこで幕府は1223年(貞応2年)、双方の紛争を調停し、地頭が獲得できる収益の最低保障ラインを定めた共通の基準を制定した。これが新補率法(しんぽりつぽう)である。
給田(免田)の仕組みと地頭の収益
新補率法において、地頭の得分(経済的権利)の核心として定められたのが、田地11町のうち1町を地頭の給分とする給田(免田)の割り当てであった。これは、該当する1町から上がる年貢や公事(くじ)のすべてを、地頭が自身の直接的な収入とすることを認めたものであり、荘園領主への送納を全面的に免除された。
また、新補率法では給田(免田)のほかに、田地1段につき5升の加徴米(かちょうまい)を徴収する権利や、山野河海から得られる収益(山野河海得分)の半分を地頭が取得することなどが同時に認められた。かつてのように「現地を開発した実績」を持たない新たな地頭に対して、法的に一律の免税地(免田)と徴税権を保障した点に、この制度の大きな実務的意義があった。
荘園公領制の変質と地頭の領主化
免田(給田)の設置を含む新補率法の適用は、荘園領主の支配下にあった土地に対して、幕府権力が深く介入する契機となった。本来、荘園内における一元的な支配権(検断権や徴税権)は荘園領主が握っていたが、免田が法的に設定されることによって、地頭は荘園の一部を「自己の私領」のように直接支配する法的根拠を得たのである。
この免田の支配を足がかりに、地頭たちはその後、荘園全体の徴税を請け負う地頭請(じとううけ)を要求したり、荘園の土地そのものを領主側と地頭側で折半する下地中分(したじちゅうぶん)へと支配を拡大させていく。このように、給田(免田)制度は、平安中期から続いた荘園公領制を武士の側から切り崩し、やがて室町時代の守護領国制や戦国時代の一円支配へとつながる、中世土地制度の変質を象徴する重要なステップであった。