攘夷論 (じょういろん)
【概説】
外国(夷狄)を野蛮な存在とみなし、武力を用いてでも日本への接近や侵入を打ち払おうとする排外的な思想。江戸時代後期に欧米列強の船が頻繁に日本近海に現れるようになったことで現実的な防衛論として高まり、幕末期には尊王論と結びついて激しい政治運動へと発展した。最終的には「大攘夷」という形に姿を変え、明治維新に向けた開国倒幕の大きな原動力となった。
華夷思想と日本における独自の展開
攘夷論の根本には、古代中国から発祥した華夷思想(自国を文明の中心である「華」とし、周辺の異民族を野蛮な「夷狄」として見下す思想)が存在する。江戸時代における日本の攘夷論は、単に中国の思想を模倣したものではなく、日本独自の国家意識の形成と密接に関わっていた。特に18世紀以降、本居宣長らに代表される国学が発展し、「万世一系の天皇を戴く神州(日本)」という自意識が知識人の間に広がっていった。
さらに、水戸藩を中心に発展した後期水戸学は、この神国思想に儒教的な大義名分論を結びつけた。1825年に水戸藩士の会沢正志斎が著した『新論』は、欧米列強の脅威から神州の国体(国家のあり方)をいかに護持するかを説き、後の攘夷志士たちのバイブルとして絶大な影響を与えることとなる。
対外危機の現実化と攘夷の高まり
思想面での成熟と並行して、18世紀後半から日本近海にはロシア船やイギリス船などの異国船が頻繁に現れるようになった。当初、江戸幕府は1825年の異国船打払令(無二念打払令)などで強硬な排外姿勢を示していたが、1840年のアヘン戦争で大国である清がイギリスに惨敗したという情報がもたらされると、日本の知識人や為政者に深刻な衝撃を与えた。
この危機感から、単なる感情的な排外主義ではなく、「いかにして列強の侵略から自国を防衛するか」という切実な海防論として攘夷論が語られるようになった。しかし、幕府は異国船に対する強硬策を緩める方向(薪水給与令への転換など)へ舵を切ったため、一部の武士層の間では幕府の弱腰な外交姿勢への不満が蓄積していくこととなった。
黒船来航と「尊王攘夷」運動への昇華
1853年のペリー来航と、それに続く日米和親条約(1854年)、日米修好通商条約(1858年)の締結により、日本は長く続いた「鎖国」状態から開国へと踏み切った。この際、幕府が大老・井伊直弼の主導により、朝廷(孝明天皇)の勅許を得ずに条約調印を強行したことが、国内の政治情勢を決定的に一変させた。
極端な外国人嫌いであった孝明天皇の意向を無視して開国した幕府に対し、天皇を絶対視する「尊王論」と、外国を打ち払う「攘夷論」が強固に結びつき、尊王攘夷運動(尊攘運動)が誕生した。吉田松陰や久坂玄瑞らを筆頭とする全国の志士たちは、攘夷を実行しない幕府を「大義に背くもの」と批判し、外国公使館の焼き討ちや外国人襲撃、さらには幕府要人の暗殺(桜田門外の変など)といった過激な直接行動に打って出た。攘夷論は、もはや単なる国防思想ではなく、反幕府的な政治イデオロギーの最大の柱となったのである。
攘夷の破綻から「大攘夷(開国倒幕)」への転換
攘夷論は幕末の日本を席巻したが、実際に西洋列強との武力衝突を経験したことで、その限界が露呈することになる。1863年の薩英戦争(薩摩藩とイギリス)や、1864年の四国艦隊下関砲撃事件(長州藩と英・仏・米・蘭)において、攘夷の急先鋒であった両藩は、欧米の近代兵器と圧倒的な軍事力の前に完敗を喫した。
この敗戦は、実力行使によって直ちに外国を打ち払う「小攘夷(破約攘夷)」が非現実的であることを志士たちに痛感させた。その結果、目先の外国人を排除するのではなく、自ら進んで開国して西洋の優れた技術や制度を取り入れ(富国強兵)、将来的には列強と肩を並べる強国となって国威を世界に発揚するという「大攘夷(開国進取)」へと、思想的・戦略的な大転換を遂げた。
真の独立を保つためには、無力な幕府を倒して強力な中央集権国家を樹立するしかないという結論に至った薩長両藩は、やがて同盟を結び、武力倒幕へと突き進んでいく。攘夷論は皮肉にも、鎖国体制の打破と日本の近代化(明治維新)を推し進める最大の劇薬として機能したのである。