徳川家慶 (とくがわいえよし)
【概説】
江戸幕府の第12代征夷大将軍。実父である第11代将軍・徳川家斉から将軍職を譲られたものの、当初は大御所となった家斉が実権を握り続けた。家斉の没後に老中・水野忠邦を登用して「天保の改革」を断行したが、晩年はペリー来航という未曾有の国難の中で没した。
家斉の「大御所政治」の影と将軍就任
徳川家慶は1793(寛政5)年、第11代将軍・徳川家斉の次男として生まれた。兄が早世したため将軍継嗣となり、1837(天保8)年に第12代将軍に就任した。しかし、引退した実父の家斉が大御所として西の丸にとどまり、依然として幕政の実権を握り続けたため、家慶は長らく名目上の将軍にとどまった。家斉の時代は、放漫財政による幕政の弛緩や風紀の乱れが顕著であり、さらに天保の大飢饉や大塩平八郎の乱が重なるなど、幕藩体制の動揺が深刻化した時期であった。
天保の改革と水野忠邦の起用
1841(天保12)年に家斉が没すると、家慶はようやく親政を開始した。家慶は、大御所時代の側近政治を打破して幕政の立て直しを目指し、老中首座の水野忠邦を重用して天保の改革を断行した。この改革では、奢侈の禁止や風俗取締りといった極端な緊縮財政、江戸の人口過密と農村の荒廃を防ぐための人返しの法、物価引き下げを狙った株仲間の解散などが実施された。しかし、厳しすぎる取り締まりは社会の活力を奪って市民の反発を招き、さらに江戸・大坂周辺の領地を直轄化しようとした上知令が猛反対に遭ったことで、改革はわずか2年あまりで失敗に終わった。家慶は忠邦を罷免せざるを得ず、のちに若手の阿部正弘を老中首座に抜擢して事態の収拾を図った。
外圧の激化とペリー来航下の最期
家慶の治世後半は、海外勢力の脅威(外圧)が急激に高まった時期でもあった。隣国の清がアヘン戦争でイギリスに大敗した情報がもたらされると、幕府は従来の強硬な「異国船打払令」を緩和し、遭難船に薪水を給与する薪水給与令を発令して融和路線へと転換した。しかし、1853(嘉永6)年6月、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いる東インド艦隊が浦賀に来航(ペリー来航)し、国書を提出して開国を強く迫った。国家的な危機に対する方針を決定せねばならない極限状態のなか、家慶はペリー来航からわずか十数日後に病に倒れ、急死した。将軍の死はペリー側に隠されたが、幕府は首脳を欠いた状態で近代化と開国という激動の幕末期を迎えることとなった。