大御所政治
【概説】
江戸幕府第11代将軍であった徳川家斉が、将軍職を第12代家慶に譲って大御所となった後も実権を握り続けた政治体制。側近の重用による幕政の腐敗や深刻な財政悪化を招き、のちの天保の改革の直接的な要因となった。広義には、家斉が親政を行っていた文化・文政期を含めた約半世紀におよぶ治世全体(大御所時代)の政治的特徴を指すこともある。
寛政の改革の反動と家斉の長期政権
徳川家斉は、1787年(天明7年)に15歳で将軍に就任して以来、歴代最長となる50年もの間、将軍の座にあった。治世の初期は老中松平定信による厳格な寛政の改革が行われていたが、定信が失脚して家斉が親政を開始すると、それまでの極端な緊縮財政に対する反動が生じた。家斉は幕府の威信を示すために華美な生活を好み、社会全体にも享楽的な風潮が蔓延した。この時代は江戸を中心とする町人文化である化政文化が爛熟した一方で、政治的な引き締めは大きく弛緩していくことになった。
将軍退位と側近政治による腐敗
1837年(天保8年)、家斉は次男の家慶に将軍職を譲ったが、自身は江戸城西の丸に移り「大御所」として引き続き幕政の実権を掌握した。狭義の「大御所政治」はこの1837年から家斉が死去する1841年(天保12年)までの期間を指す。この間、家斉は水野忠成や林忠英といった自らの意に沿う側近を重用したため、老中をはじめとする幕閣の合議制は形骸化した。側近たちは権力を背景に賄賂を公然と要求し、幕府の役職は金銭で売買されるなど、猟官運動と政治腐敗が極限にまで達した。
幕府財政の破綻と社会不安の増大
大御所政治期における最大の問題は、致命的な財政悪化であった。家斉は40人以上の側室を持ち、50人以上の子女をもうけた。彼らを諸大名へ養子に出したり、嫁がせたりするための莫大な持参金や工作費が幕府財政を激しく圧迫した。幕府は財政赤字を補填するため、貨幣の質を落として改鋳差益(出目)を得る貨幣改鋳(文政金銀など)を頻発させたが、これは深刻なインフレーションを引き起こし、庶民の生活を直撃した。
さらに、この時期は天保の大飢饉(1833年〜1839年)に見舞われ、農村の荒廃と都市部の打ちこわしが激化していた。1837年には元大坂町奉行所与力による大塩平八郎の乱が勃発し、幕府に大きな衝撃を与えた。また、対外的にも異国船の接近が相次ぎ(モリソン号事件など)、まさに「内憂外患」の危機的状況にあったが、大御所政治は抜本的な解決策を打ち出せないまま事態を悪化させていった。
家斉の死と天保の改革への転換
1841年(天保12年)に大御所・家斉が死去すると、長らく実権を奪われていた将軍家慶のもとで、老中水野忠邦が台頭した。忠邦は直ちに家斉の側近たちを罷免・処罰して大御所政治の残党を粛清し、幕府の権威回復と財政再建を目指す天保の改革に着手した。大御所政治の時代は、江戸時代を通じて最も平和で文化が成熟した「最後の泰平」であったと同時に、幕藩体制の構造的な矛盾が臨界点に達し、幕末の動乱へと直結する種が蒔かれた決定的な停滞期として位置づけられている。