後堀河天皇 (ごほりかわてんのう)
【概説】
鎌倉時代の中期に在位した第86代天皇。1221年の承久の乱で幕府軍が朝廷軍を破ったのち、鎌倉幕府の主導によって仲恭天皇に代わって擁立された。皇位継承における武家権力の優位を決定づけた、朝廷の転換期を象徴する天皇である。
承久の乱と幕府主導による擁立
1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の打倒を目指して挙兵した承久の乱は、幕府側の圧倒的な勝利に終わった。乱の後、執権の北条義時を中心とする鎌倉幕府は、主謀者である後鳥羽上皇(および土御門・順徳の両上皇)を配流し、直ちに時の仲恭天皇(当時は九条廃帝と呼ばれる)を廃位した。
幕府は、後鳥羽上皇に近い系統からの皇位継承を拒絶し、後鳥羽の兄である守貞親王(もりさだしんのう)の第3皇子、茂仁王(もちひとおう)をわずか10歳で帝位に就けた。これが後堀河天皇である。天皇の決定権が実質的に武家政権の手に渡ったこの出来事は、それまでの朝廷と幕府の勢力バランスを根本から覆す、画期的な事件であった。
「後高倉院」による異例の院政
後堀河天皇が即位した当時、天皇はまだ幼少であり、政務を執るための後見人が必要であった。通常、院政を行う「治天の君」は天皇を退位した上皇(院)が務めるが、後堀河天皇の父である守貞親王は、これまで一度も皇位に就いたことがなかった。
しかし幕府の強い意向と後押しにより、守貞親王は太上天皇の尊号を贈られ、後高倉院として院政を開始した。天皇を経験していない者が「院」として政務を執るというこの異例の措置は、承久の乱後の混乱を収拾し、幕府がコントロールしやすい体制を整えるための政治的妥協の産物であった。この一連の動きにより、朝廷内における幕府の政治的影響力は絶対的なものとなり、京都には朝廷を監視・統制するための六波羅探題が設置された。
若すぎる崩御と四条天皇への譲位
1223年に父・後高倉院が没した後は、近衛家実らの補佐を受けながら親政を行った。1232年(貞永元年)、後堀河天皇は2歳に満たない第一皇子の秀仁親王(四条天皇)に譲位し、自らは院政を開始した。この時期、幕府では貞永式目(御成敗式目)が制定されるなど武家社会の法秩序が整う一方で、朝廷側の権能は大きく縮小していった。
後堀河上皇は院政を開始したものの、そのわずか2年後の1234年(文暦元年)、23歳の若さで崩御した。彼の短い治世と急死は、承久の乱後の不安定な朝廷の立場を象徴するとともに、のちに四条天皇が12歳で急死した際、再び幕府(北条泰時)が皇位継承に介入する(寛元の政変)伏線となった。